独創性の鍵の一つには「無知の知」があるか?

 コンピュータの父であるアラン・ケイ氏が東工大と東大で一昨日、昨日と講演をしていたのに今更気づいて大ショックです。聴きに行きたかった。

大島芳樹のカリフォルニア日記 – [アラン・ケイ] 東大での講演

参考
アラン・ケイ [wikipedia]
アラン・ケイ [Amazon]

 それで、仕方がないので以前、後藤貴子氏がアラン・ケイ氏に行ったインタビューをもう一度見直してみました。

後藤貴子の米国ハイテク事情 コンピュータは人間を進化させるか アラン・ケイ氏インタビュー

 読んだことがない方は是非読んでみてください。コンピュータだけではなく、普遍的な哲学、科学する心について語っています。

 このインタビュー中で、アラン・ケイ氏は本文中にも書いてあるように「餌を見ることができないで飢死するカエル」の話で「気づかないことが多いと言うことの重要性」を語っています。

カエルは動くハエしか餌として認識できないため、死んだハエを目の前に置いても気付かないのだそうだ。逆にボール紙などで作った疑似餌を動かすと飛びつくが、疑似餌だから食べられない。

 読み進めているうちに、ふと独創性というのは無知の知によって生み出されるのではないかとそう思えました。しかしながら、これを思ったときには、これを書いている今現在も、まったくもって当たり前のことだろうと思う自分もいるという、不思議な違和感があります。しかしながら、この違和感が自分が気づいていなかったことに気づいたことの証なのかもしれません。

欠けているのはパースペクティブ(視野)だ。パースペクティブの欠落は好奇心の欠落に直結する。もしあなたが世界全体を見終わったと思うなら、あとはすべてのものに名前を付ければいい。しかし全部は見ていない、どころかほとんど見ていないと気付いたとたん、名前のないものを探し始めなければならない。

 独創的であるというのはすなわち、誰も気づかなかったことに気づいたということです。気づいていなかったということに気づいて初めて思考が動き出すのです 1 。ここまで書いていて余計に、当たり前のことを書いているなと思ってしまいます。

 しかしながら、気づかないことに気づくというのはとても難しい。それが簡単にできていれば、独創性というものを求めて苦労する必要はありません。そして、気づかないことに気づいた瞬間にはすでに気づいているのだから、などという禅問答チックの台詞は置いておいて、ではどうすれば気づくことができるのか?

 まずアラン・ケイ氏が指摘しているように、知らないことの方が多いという現実を受け入れることをはじめとするでしょう。しかしながら、これではまだ漠然としすぎています。と・・・、ここまで書いていて、その先がうまいこと書けない。書けないというよりも、まだわからないという方が正しいのかもしれない。

 なので、いったんこの話はここでおいておくとします。

 そして最後に・・・、私は独創性のそのほかの鍵として、やはり「好奇心」と「自己愛」の二つを挙げずにはいられません。

  1. この文章の「初めて」と書いた部分には違和感があります。違うかもしれません。 []