絶望して諦めたこと

 1年ほど前だったか忘れたけれども、絶望をして諦めたことがある(とりあえず思考の上では)。

 その諦めたこととは他人を制御することはできないということ。

 それがたとえ家族であれ、恋人であれ、誰であれ。

 むしろ、無意識のうちに制御しようとしていたんだなということに気づいたということの方が大きかった。

 たとえば(〜が・・・してくれないから)不機嫌になるとすれば、不機嫌な自分を「演じる」ことで他者に対して罪悪感を負わせて、他者を制御しようとする。「自分は傷ついた」と表明して、他者に罪悪感を負わせ、他者の言動を制御しようとする。自分はそれらはなんと暴力的な行為なのだろうかと思って、自分自身がいやになった。

 だから、他者は決して制御できないと絶望して、諦めた。

 そして、他者の行為・言動が制御できないとすれば、自分は傷つかない、傷つくふりをしないことを選ぶことに決めた。

 それは、そう簡単じゃないけれど、たとえば胸が苦しくなるのならば、それを誰かのせいにするよりは付き合うしかないそんな気持ちでいるようにしようと思っている。自分自身に寄り添うしかないと。

 実はそれによって少しずつ他人から自由になっていくという効果がある。他人の思考に縛られない自分。自分自身を受け入れることのできる、愛することのできる自分。そういう自分が自分には必要なのではないかと思っている。

 まだまだ難しくて、それはまともにはできていないこと(mixiに逃げてしまうのは悪い癖)だけれども、そうしたらだいぶ楽になった気がする。

 何度も出しているような気がするけれど、以前あったブログのココヴォコ図書館の「苦しさを感じるなら、僕なんて愛さなくていいんだ」というエントリがとても好き。

ココヴォコ図書館 – 「苦しさを感じるなら、僕なんて愛さなくていいんだ」

僕こそ昔の彼女とまったく同じで、強い自意識が、他者への強い期待となって、「愛されなくんば、我に憎悪を」とでも言うような態度で人に迫っていたように思う。ある種の強迫観念。愛情に対する渇望。

だから僕は、「好かれなくてもいいや(勿論、好かれたほうが嬉しいけれど)」という態度を選んだ。勿論、人から嫌われることの痛みは、それで減るものじゃないけれども、嫌われることを憎悪へと直結させる回路を出来るだけ形成しないように努力する。これは憎悪の積極的選択でもないし、愛情の全的な放棄でもない。簡単に言えば、他者に対する期待を捨てたのだった。その代わり、というわけではないが、僕はまず、他者ではない人間、すなわち自分にとってはたった一人の自分を愛するように努めた。ナルシシズムと似た、しかしそれではない、自己の許容を目指したのだった。そしてある程度自分が許容できるようになったら、少しずつその許容の範囲を広げていった。

多くの場合、「愛情への渇望」と言うのは、「自己存在に対する不安」と表裏一体をなしている。自分が何者かわからない。自分がどのような価値を持っているのかわからない。だから、他者に愛されるということにおいてのみ、自分の存在を安心できる。我々はそのような状態に陥りやすい。ニーチェ風に言うならば、これは愛の流刑地ならぬ、愛のルサンチマンだ。ルサンチマンとは、単に「ねたみ」だけを表すのではない。原義でいうならば、感情が逆転していること、すなわち、常に相対的な評価でしか、感情を作りえないことを指す。この場合、常に他者から「愛される」ことにおいてのみ、自分の存在が安心できることを、指している。だけど、そういう風にやっていると、いざすべての他者がいなくなったときに、誰が一体あなたの存在を受け入れるのか。自らの存在を受け入れるのは、結局自分自身でしかないし、世界の中心で叫ぶべきは、他者愛ではなく、自己愛であると僕は考える。