いよいよ最終巻である。
以前、河合隼雄の何かの本で、村上春樹は人間の無意識を書いているのではないかと書いていたように記憶している。
自分の中では、それはずっとこびりついていたし、このねじまき鳥クロニクルを読むときももちろんそうであった。
ありきたりな解釈をすれば、この小説では井戸は無意識の世界へ降りていくためのメタファであると考えられる。主人公は現実と夢がつながっていて、あまり区別も付いていない。終わりに行くにしたがって、その両方への行き来も激しくなる。まるで夢のごときである(フィクションなんだから、夢であるのだけれど)。
第2部の書評で無意識と闘うことはまるで無謀であるかのように書いた。別に全くの無謀だとは思っていないのだけれど、かなり意思を消耗する方法であるし、果たしてうまくいくかどうかわからないという意図だった。
一方で、この小説の主人公、岡田亨はその無意識と正面切って闘った。彼自身も、妻、久美子も無意識の闇に捕まっていたところを、彼は闘ったのだった。彼は第2部の叔父の言葉でそれを覚悟し、決めた。彼は、妻の存在がなければそのような大きな賭には至らなかっただろう。何か、無意識との対決というのはこれぐらい、場合によっては自己を失ってしまうぐらい危険なものであるということを暗に意味してならないような気がしている。
と、なんだか一般的な意見を書いてしまった。もし、自分が河合隼雄の本を読んでいなかったら、どのような文章を書いたであろうか?
目標まで残り195冊。