書評というのはどういうことなのだろうか?ということへ、少しでも至ろうとする

 書評は難しい。未だにわたしは書評というものがなんなのかつかめていない。このエントリをだいぶ前から書こうと思って、書いては消し、というよりも書けずに放置している状況である。

 逆に考えてみる。書評が難しいときはどんな状況か?書評が難しいと感じる本はどんな本か?それに対する答えは少しは出てくる。

  • 著者の意見を理解できていない。
  • うまく一般化したことが言えない。
  • なんだか浅い意見を書いているような気がする。

 ここには他者への視点が抜けている。すなわち、どうしたらこの本をおもしろいと思い読んでみようかなと思わせるという点である。これは書こうかどうしようか迷った。

 本来の(辞書で引いたような意味での)書評というのは、著者の意見に対して肯定であっても否定であっても自分の意見を述べることであったり、こんな本ですよという紹介をすることらしい。

 紹介という点で考えれば、この他者の視点を入れないというの致命的である。ただし、自分にとって書評というものがどういうものか?ということを漠然としたイメージだけれども書いてみると、書くことで自分の血肉にならないだろうか?自分の日常に還元できないか?ということをねらっているものである。

 いや、他者に紹介するということは、ある種その本の書いてあることの要約ということなのだから、著者の意見を理解できていないということに限りなく近い。

 このようなことを書くと小説はどうなの?という意見が来そうである。すべてがそうだとも思えないが、小説に関しては、以前引用した森博嗣の言葉がかなり真理を突いているような気がするから、小説でさえその中に入ってしまうと思う。

小説を読む人は、フィクションの中に、自分を導く真理を見つけようとする傾向がある。でも、小説を読み慣れない人間からしてみると、架空の人物の台詞なんか、まったく重みがない(どうせ作りものだ)。だから、ノンフィクションの中で真理を探そうとする。

 やはり、書評が難しいと思えるいちばんの原因は、自分の理解不足にあるだろう。のほほんと読み過ぎているからなのかもしれない。ほかには言い訳っぽく書けば、普段から考えていることであればある程度同意しながら、もしくは反対しながら、読み進み書評もすらすらと書けるであろう。しかしながら、普段から考えていないことに対しては、反応というものはなかなかすぐには出てこないものだろうという理由も考えられる。

 言い訳は置いておいて、自分が納得いく書評を書くためには、書評が難しいと感じた本はより深く理解しろというメッセージであると思えということなのだろうか。