Monthly Archives: January 2008

書評: 情報進化論 — 生命進化の解明に向けて

情報進化論 — 生命進化の解明に向けて
著者: 大矢雅則
ページ数: 112ページ
出版社: 岩波書店
発売日: 2005年4月

 生命の進化について、もっとも情報学からして扱いやすい題材であるDNA・RNAをベースとして、情報学的取り扱いをしてみた本。理解が浅いような気がしているので、うまく書けている自信がない。

 そもそも情報とは何か?ということにこの本は結構な紙面を費やす。情報を科学でとらえるには、現時点で我々に与えられている方法というのはシャノンの情報エントロピーを用いる。そして、このようなとらえ方を用いて生命情報の符号化列であるDNAを解析する。

 シャノンが情報を数量化したことで、その情報の受け渡しの精度を計算することができる。それを生命に応用すると、生物のDNA上での類縁関係を数値化することができる。この本では、生物の分類をしたり、HIVの変化を見たりする。

 また、符号化列としてのDNAは情報学的に見るとどのぐらいエラーに対して強いのか?という点についても、現在コンピュータサイエンスや通信理論で使われているようなエラー訂正理論に当てはめ解析する。

 DNAに刻まれた情報というのは単にATGCの4つの符号がただ並んでいるわけではない。そこには、生命の知恵が隠されているのだろう。

 目標まで残り194冊。

書評というのはどういうことなのだろうか?ということへ、少しでも至ろうとする

 書評は難しい。未だにわたしは書評というものがなんなのかつかめていない。このエントリをだいぶ前から書こうと思って、書いては消し、というよりも書けずに放置している状況である。

 逆に考えてみる。書評が難しいときはどんな状況か?書評が難しいと感じる本はどんな本か?それに対する答えは少しは出てくる。

  • 著者の意見を理解できていない。
  • うまく一般化したことが言えない。
  • なんだか浅い意見を書いているような気がする。

 ここには他者への視点が抜けている。すなわち、どうしたらこの本をおもしろいと思い読んでみようかなと思わせるという点である。これは書こうかどうしようか迷った。

 本来の(辞書で引いたような意味での)書評というのは、著者の意見に対して肯定であっても否定であっても自分の意見を述べることであったり、こんな本ですよという紹介をすることらしい。

 紹介という点で考えれば、この他者の視点を入れないというの致命的である。ただし、自分にとって書評というものがどういうものか?ということを漠然としたイメージだけれども書いてみると、書くことで自分の血肉にならないだろうか?自分の日常に還元できないか?ということをねらっているものである。

 いや、他者に紹介するということは、ある種その本の書いてあることの要約ということなのだから、著者の意見を理解できていないということに限りなく近い。

 このようなことを書くと小説はどうなの?という意見が来そうである。すべてがそうだとも思えないが、小説に関しては、以前引用した森博嗣の言葉がかなり真理を突いているような気がするから、小説でさえその中に入ってしまうと思う。

小説を読む人は、フィクションの中に、自分を導く真理を見つけようとする傾向がある。でも、小説を読み慣れない人間からしてみると、架空の人物の台詞なんか、まったく重みがない(どうせ作りものだ)。だから、ノンフィクションの中で真理を探そうとする。

 やはり、書評が難しいと思えるいちばんの原因は、自分の理解不足にあるだろう。のほほんと読み過ぎているからなのかもしれない。ほかには言い訳っぽく書けば、普段から考えていることであればある程度同意しながら、もしくは反対しながら、読み進み書評もすらすらと書けるであろう。しかしながら、普段から考えていないことに対しては、反応というものはなかなかすぐには出てこないものだろうという理由も考えられる。

 言い訳は置いておいて、自分が納得いく書評を書くためには、書評が難しいと感じた本はより深く理解しろというメッセージであると思えということなのだろうか。

書評: 空中庭園

空中庭園
著者: 角田光代
ページ数: 281ページ
出版社: 文藝春秋
発売日: 2005年7月8日

 「対岸の彼女」に続き、角田光代の小説2冊目。数日前に読み終えて、この書評を書いていたのだけれど、なんだかうまく書けずにいた。ただし、今年の目標は読んだ本は必ず書評を書くということだったので、この本もちゃんと書きたいと思う。

対岸の彼女

 秘密を作らないということが一応の決まりである家族がそれぞれに隠し持つ秘密。それを家族 + 周りの人の6人の視点から少しずつ時系列を変えて描く。

 秘密とはなんだろうか?いわゆる、ばれたらまずいものというほかにも色々なものがあるような気がした。言葉にするのが恥ずかしくて、もしくはできなくて言わないこと。思い出すと傷つくので思い出さないことにしていること。

 そんな秘密は時にはすれ違いを起こす。家族というのはどうも心理的な距離が近すぎて、様々な感情が直接届いてしまう。だからなのか、家族であるからこそ言えること、そして家族であるからこそ言えないことが出来る(どこかに引用すべき文章があったのだけれど出てこない)。そんな中で6人の視点からそれぞれの悲しみが浮かぶ。ありきたりな意見だけれど、その多くは家族だからこそ言わなくたって伝わるんじゃないかという甘い期待から起こるような気がする。

 同じことに対する(正確には同時ではないが)6人の思っていることはそれぞれ違う。家族ですら。あらためて、当たり前なのだけれど人間は言っていることと思っていることを全く別にすることが出来ると感じた。だから信じないということも出来る。そう考えると、やはり思ったことを素直に口に出来る人はかけがえのない人であって、大切にしたいと思う。

 秘密というのはきっと、秘密がないことが大切なんではなくて、秘密が明かされたときにそれを受け入れるか受け入れないかが大切なんじゃないかと思った。

 目標まで残り194冊。

インターネットは文化を取り戻すためにあるのだと思う

 文化とは何か?何を持って文化だとするのか?はわたしは明確にいうことが出来ないような気がするのだけれど、一部は芸術作品から作られるものなのだと思います。庶民生活とかいうこともあると思うのだけれど、芸術作品はやはり大きいものだと思われます。

 今まで、文化というものは経済至上主義によってどんどんと失われていました。売れるものだけが生き残り、そして売れるものもいつか売れなくなり消えていく。消えてしまえば、文化が失われる。そうして、どんどんと文化が失われました。そして、経済至上主義により流通させるという利権も生まれたのでしょう。

 もちろん、経済至上主義によって、芸術作品がある程度の速度を持って伝播することが出来ました。その利点はかつては大きかったのでしょう。

 そして、インターネットが生まれました。インターネットはあらゆるデジタル化可能なものを飲み込み、一瞬にして日本だけではなく世界に伝播することが可能となりました。それにより、もはや流通させるという仕組みはほとんど必要なくなり、かつての利権は失われようとしています。

 そうなれば誰でも生き残りに必死になりますので、利権側はまだ力があるうちに、法律、テクノロジーなどあらゆるものを使って、正義という大義名分を使って、インターネットを制限しようと試みます。しかしながら、最終的に消費者が買わなければなんにもならないということに気がつき、アメリカではmp3のDRMが廃止されつつあります。音楽自体が無料になり、デジタル化不可能なもの、たとえばライブなどで収益を上げようと少しずつ体質を変えていっています。

 わたしがインターネットを初めた97年に、友達にインターネットは目の前に図書館があるんだといった覚えがあります。今でもそれは変わりません。むしろ、YouTubeやニコニコ動画の出現はそれを加速しています。まさにようやく文化を取り戻すための時がやってきた、とそう感じています。

 残念ながら、文化を破壊していた利権団体にはつぶれていただくより他なりません。それにより一時的に文化が失われたように見えても、きっとそれは一過性のもので、インターネットを介して文化を増加していく仕組みが生じることをわたしは信じてやみません。文化は利権団体が決めるものではなく、我々自身が決めていくものです。

ほしいのは、単に薄いのじゃなくて、軽いのなんだけどな・・・

 MacBook Airが発表されました。眠い目をこすりながら、ライブを見ていたのですが、イマイチな感じがしました。

アップル – MacBook Air

 CD/DVDドライブを削ってしまったのは別にいいことだと思います。あまりCDって使うことないし。

 MacBook Airは確かに薄いです。薄いのだけれど、HDDが1.8インチという時点で終わっているし(SSDは高価すぎる)、重いし、端子削りすぎだし、でかい・・・。もっと小さいのがほしいです。まあ、今後に期待ということで。

 バッテリーが埋め込まれているのか?自分で交換できないっていうのも痛すぎます。こういうのは1日持ち歩き、どこでも使うという感じだと思うのだけれど。

 デザインは結構ほしいかな。

追記:
 タイトルを勝手に日本人代表にしていましたので、修正しました。

見えない生活@テレビ朝日

 アクセス解析で「見えない生活」に出演の浦田りえさんで検索してこられる方々数いらっしゃったので、何かあったのかな?と思ったら3日間かけて、テレビ朝日で放送されかつ放送するそうです。

 見えない生活というのは九州のテレビ番組「ドォーモ」の中で時々企画されているもので、重度の視覚障害者の浦田りえさんがどのように日々の生活を送っているか、そして彼女の考え方などを紹介する番組です。わたしは関東の人間なので、YouTubeやニコニコ動画(削除されてしまいましたが)で知りましたが、非常に丁寧に作ってあり、そして彼女の非常に前向きな考え方が随所に見られるという秀逸な番組でした。

 そのときのことはこちらに記してあります。

cocoa*life » 「見えない生活」に見る天真爛漫さ

 今回は特別企画としてテレビ朝日と東日本放送(ってどこの局だろう?)で放送されるようです。

見えない生活! ドォーモ

 テレビ朝日では1月11日午前3時50分から(たぶん1月12日のことでしょうが、残念ながら終わってしまいました)、1月18日、2月1日に放送されるようです。

書評: ねじまき鳥クロニクル 第3部 鳥刺し男編

ねじまき鳥クロニクル 第3部 鳥刺し男編
著者: 村上春樹
ページ数: 509ページ
出版社: 新潮社
発売日: 1997年9月

 いよいよ最終巻である。

 以前、河合隼雄の何かの本で、村上春樹は人間の無意識を書いているのではないかと書いていたように記憶している。

 自分の中では、それはずっとこびりついていたし、このねじまき鳥クロニクルを読むときももちろんそうであった。

 ありきたりな解釈をすれば、この小説では井戸は無意識の世界へ降りていくためのメタファであると考えられる。主人公は現実と夢がつながっていて、あまり区別も付いていない。終わりに行くにしたがって、その両方への行き来も激しくなる。まるで夢のごときである(フィクションなんだから、夢であるのだけれど)。

 第2部の書評で無意識と闘うことはまるで無謀であるかのように書いた。別に全くの無謀だとは思っていないのだけれど、かなり意思を消耗する方法であるし、果たしてうまくいくかどうかわからないという意図だった。

 一方で、この小説の主人公、岡田亨はその無意識と正面切って闘った。彼自身も、妻、久美子も無意識の闇に捕まっていたところを、彼は闘ったのだった。彼は第2部の叔父の言葉でそれを覚悟し、決めた。彼は、妻の存在がなければそのような大きな賭には至らなかっただろう。何か、無意識との対決というのはこれぐらい、場合によっては自己を失ってしまうぐらい危険なものであるということを暗に意味してならないような気がしている。

 と、なんだか一般的な意見を書いてしまった。もし、自分が河合隼雄の本を読んでいなかったら、どのような文章を書いたであろうか?

 目標まで残り195冊。

書評: ねじまき鳥クロニクル 第2部 予言する鳥編

ねじまき鳥クロニクル 第2部 予言する鳥編
著者: 村上春樹
ページ数: 361ページ
出版社: 新潮社
発売日: 1997年9月

 この後に書評(といえるものであろうか?)を書くのだが、第3部も一緒に8時間くらいで読んだ。途中精神的に重くてしんどかったのだけれど、とにかく読み通した。

 小説はあらすじを書く気にはならないので、どう書こうか難しいところである。

 第2部で出てくる「クミコの手紙」は自分にとって衝撃的だった。クミコが手紙の中で書いているような、自分であって自分でないような感覚(とわたしは読んだのだが・・・)を今まで自分は考えようとしつつ、避けようとしていたのではないかと思ったからだった。

 この小説の中で、意思ではなく何か大きな「運命」のようなものに翻弄されていく人々が描かれるが、過去の西洋哲学も含めて、人間は自分の意思を過信しすぎているのかもしれない。

 少し前までは、自分と向き合うということを、対決するというか闘うというか、敵としてしか見なさなかったように思う。果たしてそれでいいのか?それが最近の疑問であって、自分が対決しようとしていたのは意志などという表層のものではなくて、無意識なる自分なのではないかと思えてきている。

 自分が、自分自身と対決し、自分の思考を意思が望む方向に変えることは通常の方法で果たして可能なことなのか?闘おうとすればするほど、自分自身が消耗するような、力が抜けていく感覚。以前書いた、心で解るというのは無意識で解るということを意味するのだろう。それは意思の力でこういう方向にしろ!ということからではなしえないのかもしれないと漠然と思えるようになってきた。

 そして、果たしてたとえば裏切りというようなもののは存在するのだろうか?この小説を読んでわからなくなった。完全にないとはわたしにも思えない。客観的に見てならば存在するように思える。しかし主観的にはどうなのか?クミコがしたことは客観的には裏切りなのかもしれないが、彼女は大きな流れに逆らうことができなかったというようなことである。

 意思の力を過信しすぎて、道徳 = 正義 = 「正しさ」を作り上げ、それから少しでも外れる人間を奇異として徹底的にたたく。わたしにはそれが人間心理というものの理にかなったものであるとは何となく思えない。たとえば思いやりという言葉で包んでしまえば、すべて「正しく」なってしまうような状況はとても危険なように感じる。

 流れを元に戻す。では、自分と闘わずしてどうしたらいいのか?流れに身を任すということしかないのか?自分を受け入れるのか?(これはそう簡単にできるものではない)それは今のわたしにはよく分からない。

 目標まで残り196冊。

書評: ねじまき鳥クロニクル 第1部 泥棒かささぎ編

ねじまき鳥クロニクル 第1部 泥棒かささぎ編
著者: 村上春樹
ページ数: 312ページ
出版社: 新潮社
発売日: 1997年9月

 普段はあまり小説は読まないが、今年はもっと小説を読もうと思っている。きっかけの一つは森博嗣のこの言葉だった。

小説を読む人は、フィクションの中に、自分を導く真理を見つけようとする傾向がある。でも、小説を読み慣れない人間からしてみると、架空の人物の台詞なんか、まったく重みがない(どうせ作りものだ)。だから、ノンフィクションの中で真理を探そうとする。

 もう一つは、角田光代の「対岸の彼女」を読んだことだった。

対岸の彼女

 閑話休題。

 まだ1巻しか読んでないので(残りは注文中)何とも言えないのだけれど、おもしろいというのとなんだか哲学的だなぁということは分かった。どこが哲学的だと感じたのかは、主人公が哲学している部分を抜き出せばそれでおしまいなのだが、どうおもしろいのか?何がおもしろいのか?それがちゃんと書ければいいのだけれど、うまく書けない。とにかく引き込まれるということだけは確かだった。

 これぐらいしか、わたしには書けない。

 今はまだ何もつながっていない状況なので、人間はあまりにも分からないものに対しては魅力を感じるのだろうか?とにかく、早く続きが読みたい。

 目標まで残り197冊。

書評: ポアンカレ予想 — 世紀の謎を掛けた数学者、解き明かした数学者

ポアンカレ予想 — 世紀の謎を掛けた数学者、解き明かした数学者
著者: George G. Szpiro
ページ数: 350ページ
出版社: 早川書房
発売日: 2007年12月19日

 最近、ポアンカレ予想に興味を持っていて少しずつトポロジーを学んだり、ポアンカレ予想の本を読んだりしている。あとは、最近NHKで放送されたポアンカレ予想の番組がとてもよくまとめられていたように感じられた。

 そんな中で読んだのがこれ。

 ポアンカレ予想の証明に携わった数学者たちの歴史を見て取れる。いかに数学者たちがポアンカレ予想に魅せられ、そしてその泥沼にはまり、それでも少しずつ解決をしていったか。ポアンカレ予想を最終的に証明したのはグレゴリー・ペレリマンであったが、そこには膨大な先人たちの知識が必要であった。特に形がどう変化するのか?ということを数式で示すことを可能にしたハミルトンのリッチフロー方程式によるものが大きい。

 図が少なかったので、この文章だけでも細部への理解がまだ足りていないのだけれど、それでも少しは概要が分かったような気がする。願わくばもっと図を増やしてほしいと思った。それでも、まだまだ知らないトポロジーの世界を魅せてくれたこの本に感謝。

 目標まで残り198冊。