Monthly Archives: March 2008

書評: 答えが見つかるまで考え抜く技術

答えが見つかるまで考え抜く技術
著者: 表三郎
ページ数: 190ページ
出版社: サンマーク出版
発売日: 2008年1月

 またまたこういう本を読んでしまってすみません。こういうのばっかりっていうのは好きなのかなぁ?自分って思ってしまう。好きなんだけど(笑)。買ってだいたい、あーそうだよねと新たに考えさせられるということなしに、すでに考えたことだとして同意している。もちろん、考えたことと違っていたり、それは違うだろうと思っていればつっこみはするけれども。

 この本はちょっと表題と違っているように感じる。「答えが見つかるまで考え抜く技術」なので、自分が得たいところとすれば「どうすれば考え抜けるのか?」というところにある。確かに、具体的に筆者はこう考えているということは書かれているのだけれども、どうも深さが足りない。抽象さというのだろうか?正直そういうのであれば、たとえば森博嗣のblogを読んでいる方がもっと深いことが得られるのである。

 逆にいうと、自分自身は考え抜いていないなと感じるのだけれども、その考え抜いたという状況、つまりはどうすれば考え抜いたと言えるのかということを自分自身が明確に掴みあぐねているのかもしれない。その答えはこの「どうしたら考え抜くことができるのか?」という問いの答えに近いのかもしれない。

 目標まで残り175冊。

はじめてのCocoaアプリケーション

 生まれて初めてCocoaベースのアプリケーションを書いた。どうしても視覚化しなければならない部分があったので。いつも書いている部分はC++なので、Objective-C++を使ってみた。ちょっと混合させるのに癖があるといえばあるのだけれども、それでも融合させられるのは今までの部分が使えるので、とても楽。このキメラな感じがいかにもMacという感じがする。

 計算幾何学で良く出てくる?ドロネー分割(領域を図のように3角形で分割する)をするアプリケーションなのだけれども、アルゴリズムが間違っているためか?、ときどき頻度で間違った答えが出る。今のところどこがどう間違っているのか、さっぱり見当がつかない。困ったな。

 用いたドロネー分割のアルゴリズム。

  1. すべての点を含むようなsuper triangleを作成する。
  2. 点を一つ選び、その点が既存の三角形の外接円の内部にあるかどうかを判定する。
  3. 外接円内部であれば、その三角形の辺を記憶しておき、三角形を壊す。
  4. 3.をすべての三角形に繰り返す。
  5. 記憶した辺の中で他のものとかぶっているものは削除する。
  6. 残った辺を一つずつ取り出し、2.で選択した点をもう1点として三角形を作成する。
  7. 2. 〜 6.をすべての点について繰り返す。

書評: プログラム書法

プログラム書法
著者: Brian W.Kernighan, P.J.Plauger
ページ数: 236ページ
出版社: 共立出版
発売日: 1982年6月

 プログラムはどう書かれるべきかということを記した、非常に古典的な本。今でこそ当たり前になった構造化プログラミングの重要性を書いている。

 題材とするプログラミング言語はFortranとPL/Iであって、実際に教科書や現場で用いられたプログラムを載せ、それに対して批判的な検討を加えている。そして、そこから「教訓」を引き出すというのが本書の基本的なスタイルである。

 一つ一つの教訓はわたし個人にとってはなじみ深いものであって、知っているものばかりであったので、さくさく読み進むことができた。ただし、Fortranで書かれたプログラムはほとんど読んでいない(ぉぃ。

 ただし「迷路を解くアルゴリズム」でされた考え方は、再帰的に問題を解決したり、分割統治の方法(これはこの本全般にわたるが)を学ぶのにとてもいいサンプルだと思う。

 最新のFortranがどうなのかはわからないのだけれども、少なくともこの本が書かれた当時のFortranはなかなか後から読むのに厳しいものがあるなという気がした。言い換えれば、「構造化プログラミング」という概念がいかに重要かということを「教訓」を含めて改めて思い知った。逆にいえば、Cでさえいかに洗練されているかということである。

 たとえば今やプログラミングにgotoを使うなというのは、(goto自体がほとんど出てこなくなったので)聞かなくなったのかもしれないが、この時代ではgotoが多用されていてまさにスパゲッティーなプログラムになっているわけである。わたしがFortranで書かれたプログラムを読まなかったのは(いや正確に言えば読めなかったという方が正しい)、文法を知らなかったということもあるけれども、情けない話このスパゲッティーについて行けなかったからである。

 しかしながら、Fortranが読めないからといって心配することはなく、解説を読めばきちんとプログラムを書く上で最低限必要になる「教訓」は得ることができ、それは今日においても全く廃れないのである。

 一度もこういったたぐいの本を読んだことがなければ、古典であるこの本でも良いかもしれない。ほかのこういったたぐいのことをまとめた本を読んだことはないので、かもしれないと書いた。プログラムをこう書くべしということ自体は様々な本で断片的に出ていると思われる。

 目標まで残り176冊。

日々雑感: 2008/03/14

1. 今更ながら、ドラゴン桜を少しずつ読んでいます。あまりにも学ぶことに対する本質的なことを書きすぎていて(今更気づいたことが多い)、今からもう一度受験し直したいぐらいです(笑)。

 ドラゴン桜に関してはいつか何かを書こうと思います。

2. 敢えて論理的思考を抜くということができないだろうか?なんて言っている時点で論理的かもしれませんが。何が言いたいのか?「型」を作るということにおいては実は論理的思考というのは邪魔にしかならないのかなと。英文を理解するのに論理的な回路を一切挟まずに(つまり日本語に翻訳するというような)、英文そのものを理解するにはたぶん英文そのものをそのものとして憶えることが必要なのかもしれないということです。

cocoa*life » 習慣による身体性と無意識

 何でこんなことを言い出したかというと、下のページを見たからなんですけどね。

プログラミングのスピードを上げる方法3

 もしかして、物理のファインマンさんとかもこんな感じか?何となくこんな感じーで物理の問題を解いていたらできちゃったみたいな。

パソコンが使える人と、使えない人ぐらい

 そうか、わかったぞ。自分はコンピュータをあくまで感覚で使っている。この機能はこんな感じかな?みたいな。それだそれ。そして、それは楽しみながら膨大なトライアルアンドエラーをやっている。って、それはまさに先日「失敗の輪郭」というところで書いたことそのまんまじゃないか。失敗することによって物事の本質が浮かび上がるという。

失敗の輪郭

 雑感なので、思ったことを箇条書き風に書いているのだけれど、あとは自分の中に宗教を持てということなのかもしれない。宗教というものが信じるということであるならば、うまくいくと信じるような宗教。そういう宗教性がない状態だと何も生み出せないのかもしれない。

書評: とかげ

とかげ
著者: 吉本ばなな
ページ数: 179ページ
出版社: 新潮社
発売日: 1996年5月

 「デッドエンドの思い出」に続く(あくまで自分が読んだ中で)吉本ばななの2冊目。

書評: デッドエンドの思い出

 吉本ばななは本書の後書きで、この本のテーマの一つが「癒し」だと書いたのだが、実際に読んでみて確かに肩の荷がするすると降りていく感じはあった。

 この本は6編の変化の兆しの前に立った人々がもがき苦しみ、そして新しい道を見出そうとしていくというショートストーリーの集まりなのだけれども、どの話をとってもこれというところが抜き出せないような、すべてが絶妙につながっていてどれかを抜き出すとそのほかがこぼれ落ちてしまうような、自分にとっては漢方薬のような本だった。

 それでも一カ所を抜き出すとしたら、ここだと思う。

 自立とは、結婚とか独り暮らしとか、そういうことではないのだ。全然違う。結婚して家庭を出ていて子供がいても親の陰を背負っている人を大勢見た。それが悪いということはないけれど、とにかく自立ではないのだと思う。

 昭と出会ってからはじめてそのことを知った。それは、昭と新しい一対とか家族とかを作った、そういう甘ったるい話ではなくって、昭と出会ってはじめて私は自分がひとりだというさみしいことの本当の意味を知ったということだった。父でも母でも村でも、昭と暮らすこの部屋でもなく、私は私のことを考え、それをしているのはこの世で私だけだということ、ぽっかりと私はここにいて、何もかもを決めていて、ここにしかいない。

吉本ばなな 「とかげ」

 この後に「うまく言えない。」という文章が続くのだけれど、この言葉は作者の素直な感想なのではないかと感じた。実際、このとき、作者自身うまく書けなかったのではないかと。ただ、何となくその匂い感じつつ、その匂いに従って書いたところこの文章になったのかもしれない。

 まだ、自分自身もその匂いを感じてはいるけれども、まだそれをつかみ取るところまではとてもいっていない。

 漫画フルーツバスケットを書いた漫画家の高屋奈月は、その漫画の登場人物すべては自分であるということを書いていた。自分の色々な側面が登場人物になっていると。この小説でも勝手にそう感じた。どの登場人物も、吉本ばななその人ではないかと。

 目標まで残り177冊。

書評: 数学でつまずくのはなぜか

 長らく考えて、ようやくどう書けばいいのか決めることができた。こういう多種多様なことが書いてある本は全部それを解説しても仕方がないしということで、書き方を迷ってしまう。

 読んでからだいぶ時間が経っているので、本書の内容からかなりかけ離れてしまうかもしれませんが、ご了承ください。

数学でつまずくのはなぜか
著者: 小島寛之
ページ数: 237ページ
出版社: 講談社
発売日: 2008年1月18日

 タイトルの「数学でつまずくのはなぜか」は本書の半分を表していると思う。もう半分はどうしたら、つまずかせないように教えることができるのか?ということ。

 数学ができる、できないということについて、著者はアフォーダンス理論に則り、人間には数学を感じる心のような感覚器官があるのではあるが、その感覚器が人によって様々であるために、数学が「できる」、「できない」かのように見えてしまう。ということであれば、逆に考えてその感覚器がとらえ得るような教え方ができないか?ということになる。それをたぶん作者は模索しているのだろう。

 前にも書いたかもしれないけれど、学問はそれができる間に紆余曲折した部分、梯子となっていた部分は、完成すると必要がなくなり外されてしまう。そしてあたかもあらかじめあったかのようにそこに存在するようになってしまう。

 そうすると後からこれを学ばんとするものにとっては、いきなり抽象的な概念を扱わなければならず、右往左往してしまう。であるから、まずは作者はどのような場面でそれが必要となったのか?ということを説明する。それは好奇心がうずくような問題を与えてみて、ほらこれを解くのにこういうものが必要でしょう?ということを伝え、それによってそれの本質的な意義や哲学を理解させようというプロセスなのかもしれない。このプロセスは数学が社会に必要か必要でないかという点から見るのではなく、好奇心を満足させるという学問本来の姿から見ている。

 学問を教えるというときには、本来は圧倒的な教養を持って(様々な普遍的構造を見抜くには教養が必要であるとわたしは考える)、その哲学を伝えなければならないのかなと感じた。その哲学というのは往々にして、それが考えられた当時、初めて必要とされた当時には生じているもので、そういう意味で歴史をたどるということはすさまじく意味があるのだと思う。

 目標まで残り178冊。

失敗の輪郭

 林信行氏が「失敗に学べ」というなかなかステキなエントリを書いている。

nobilog2: 失敗に学べ

 今まで失敗は成功の元という言葉は良く聞いてきて、それらはたとえばエジソンなどの例を挙げたりとか、ある程度納得はしていたのだけれども、なかなかそれを許せない自分がいるということもまた(わたし個人の)事実である。

よく考えてみたら、失敗を経験していない人よりも、失敗を経験した人の方が、経験も豊富だし、注意深くなっているし、投資対象としても、信頼がおけそうなものなのに、日本の失敗してしまった悪者が、無情にも殺されるガッチャマンやら仮面ライダーでも見過ぎてしまったのだろうか。

 なぜだかよくわからないけれども、この林氏の言葉がストンと胸に落ちた。いや、実際はこの文章を読みつつ、読んでいなかった。注意深くなっているしという部分まで読んで、自分は、ああ失敗によって物事の輪郭が鮮明になったり、物事に対する感度が爆裂に上がるのかもしれないなと思った。その時点でこのエントリを書き始めようと思ってblogを開いていたのだった。

 以前「己と道具を知ること」というエントリで、理解していることとしていないことを明確にすることが非常に重要なのかもしれないと書いたのだけれども、失敗によってそれ以上に失敗を分析することによってその理解していなかったことが明確にわき上がってくるのかもしれないと感じた。

cocoa*life » 己と道具を知ること

 失敗を恐れないようにという。わかっていても恐れてしまう。もう恐れる恐れないとかの問題にしないで、失敗しても良くて、それによってより問題は輪郭になって本質がえぐり出されるともっとプラスの方向で考えた方がいいのかもしれない。

 そしてもう一つこのエントリから感じたのは、いくつかの場面から抽象化することは、抽象化した事柄から実際の場面を想像することよりも簡単なのかもしれないということだった。もし仮に本質的な抽象化された「真理」を知り得ていたとして、ある場面に出くわしたときに、切り口がないとその「真理」が適用できるかどうか気がつかない恐れはないだろうか?(ないかもしれないw)

 上で実際の場面を想像すると書いたのは、その多様な切り口を持つ必要があるであろうということで、至極当たり前な結論である。けれども、今まで抽象抽象と抽象化することばかりを考えていた自分にとっては大事なことかもしれないと思えたのだった。

日々雑感 2008/03/10

1. 実はMacBook Airはそこそこ売れているのか?ネットみていると(という狭い範囲だけれど)そこそこAir買いましたというのをみている気がする。

2. Webブラウズを高速化するというdolipoを入れた。確かに速くはなるけれども、SSLなページでつながらないことが頻発するのでSSLでは使わないようにした。

3. この付箋紙は非常に欲しい。後で買ってくる。

やじうまミニレビュー 無印良品「貼ったまま読める透明付箋紙」~通勤学習に便利な付箋紙

4. 林信行氏がEM・ONEとWMWifiRouterと組み合わせていつでもどこでもインターネットをやっている。これは非常に魅力的。EM・ONEは6月頃にIntel Atomプロセッサを載せた新機種が出るのだろうか?

Welcome to the future (of wireless)!

5. いつの間にかAutoPagerizeのGreaseKitで使える版が出ていた。もちろん導入。Webブラウズがめちゃめちゃ快適になる。

http://ss-o.net/userjs/oAutoPagerize.user.js

どんなものかというと、たとえば以下のページを例に取ってみる。

こだわりのないVAIOユーザーが、MacBook AirとEee PCを買ってしまった!(前編)

 このエントリは3ページにわたって続いていて、通常なら1ページ読んだら「次のページへ」なんかをクリックしていかないといけない。AutoPagerizeを入れると、ぜんぶ一続きで表示してくれる。この記事は、AutoPagerizeを入れるとこう見える。

 こんな風にまるでページが一続きであるように表示してくれる。Googleの検索結果などでも使えます。

これはびっくり

ソニー、ドコモ向け携帯電話から撤退・国内事業を縮小

 わたしは携帯電話はSony Ericssonのものと決めているので、かなり驚いたというか不安になりました。今のところ使っているのはauなので撤退はないみたいですが、この状況ならいつauから撤退してもおかしくはないはずだと思います。

 Sony Ericssonのものにする理由は一つ、日本語入力に使うシステムのPOBOXが圧倒的に使いやすいということだけなのですが、入力という根幹なので、自分にとっては重要です。これがなくなったら、POBOXはiPhoneのみ 1 になってしまう(笑)。

 今年になって、三洋、三菱、そしてSony Ericssonと撤退が相次いでいます。相当に苦しいのでしょうか。DoCoMo向けのメーカーがずいぶんと少なくなってしまった気がします。

  1. 正確には大人の関係上POBOXもどきみたいですが []

書評: 愛するということ

愛するということ
著者: Erich Fromm
ページ数: 214ページ
出版社: 紀伊國屋書店
発売日: 1991年3月

 「愛とは技術だろうか。」本書はこの言葉から始まる。

 数ヶ月前から、どうしたら愛することができるのかということを考えている。そしてplaisir.genxx.comというサイトで「独身女性の性交哲学」という本の書評を見たときに、本書が取り上げられていて、そういえば本棚にあったなぁと思い出して読み始めたみた。

独身女性の性交哲学
著者: 山口みずか
ページ数: 232ページ
出版社: 二見書房
発売日: 2007年11月30日

独身女性の性交哲学 / 山口みずか – plaisir.genxx.com

 以前書いたかもしれないが自分自身の過去を鑑みて、愛されたことで倖せになったのかどうか?ということを考えると、実はそのときはあまり倖せではなかったと感じていた。一方で、そんな中でもふと自分から愛情がわき出しているなと感じたとき、それはとても倖せだと後からみたら感じていたのだなということに気がついた。それからというもの、どう考えても愛されるよりも愛することの方が倖せだということになって、人と付き合ったときにどうして自分は十分に愛せたと思えるほど愛せないのか?ということを考え始めたというわけである。

 この本ではわたしは非常に重要だ思うことが呈される。

 ヴィクトリア朝時代には、他の伝統的な社会の場合と同じく、愛は、結婚へと至ることもありうる自発的な個人的体験ではなかった。それどころか、結婚は双方の家あるいは仲人によってまとめられるものであり、そうした仲介者がいなくとも話し合いによって取り決められるものであった。結婚は社会的な配慮にもとづいて取り決められるものであり、結婚した後ではじめて愛が生まれるのだと考えられていた。

 このことはある一面において真実かもしれないと思っている。根拠がないのが説得力に欠けることであるが、考えられてきたというのはある程度確信を持って信じられてきたということだったので、現在の「ロマンティック・ラブ」(というそうな?)が一面において真であるような程度に真であるような気がする。

 であるとしたら、なぜそんなことが起こるのか?ということが問題となる。つまり冒頭に挙げた、「愛は技術だろうか?」という疑問に行き着くのである。そして、この本はそれを真であることとして話を進める。

 心理学、西洋哲学、東洋哲学、あらゆる方面から様々なたとえば母親による愛、父親による愛、兄弟愛とか神との愛、そしてお得意の(笑)自己愛などを考察する。著者の東洋哲学と融合させた一神教観は非常に見事なものだと思えた。

 最近、田中メカ著の「キスよりも早く」という漫画を読んで、さらにこの本の内容を考えた。

キスよりも早く
著者: 田中メカ
出版社: 白泉社
発売日: 2007年7月5日

 あらすじは、教師の尾白一馬(24)と両親を亡くした生徒の梶文乃(16)が「キスよりも早く」結婚してしまうという話。その生徒には弟、鉄兵(4)がいて、その弟を守るために、養ってもらうということで結婚した。最初は特に何も思っていない文乃であったが一馬の注ぐ愛情に惹かれていく。一馬には実はすごい過去があってという、まあありきたりといえばありきたりな展開である。

 まさに上に挙げた、ヴィクトリア朝時代云々の話である。

 それにしても激甘な漫画であって、こんなのは漫画であって理想論に過ぎないといわれればそれもそうかもしれない。この甘々な展開をニヤニヤして眺めるのもいいのだけれども(実際とてもニヤニヤできる)、メタな視点で見てみるとどうだろう?

 すなわち、結論としては当たり前のことになるのだけれども、どれだけうまくいくかというのは、どれだけお互いが愛されることにコミットするのではなく、愛そうとすることにコミットしたかによるのではないか?それは裏返すと、相手のためになりたいという欲求であって、それで相手が喜んでくれると嬉しくなって自分のことが好きになるし、相手のことも余計好きになる。つまりは、愛するということからさらに自分自身の中から、愛情が引き出されるという、ポジティブフィードバックである。

 一馬と文乃の夫婦は不器用ながらも、お互いがお互いを喜ばせようとする。役に立とうとする。そして、相手と一緒に喜んだ場面を思い出して、ああこんなにも大好きなんだということを自覚する。この思い出して自覚するというのが非常に強力なポジティブフィードバックになっているようにわたしには思える。

 コミットするというのは、今までの自分を超えていこうとすることなのかもしれない。愛そうとすることにコミットしようとしても、実際はたとえば恥じらいであったり、受け取ってもらえなかったらどうしようという不安であったり、そういうものが行く手を阻む。それを強力なコミットで乗り越えようとするのか?過去の自分(過去に受けた傷)を超えていこうとしなければ、できないことである。

 本書では著者はコミットという言葉の代わりに「信じる」という言葉を使っている。

 愛に関していえば、重要なのは自分自身の愛に対する信念である。つまり、自分の愛は信頼に値するものであり、他人のなかに愛を生むことができる、と「信じる」ことである。

 そしてコミットすることというのは、過去の自分を超えていくということだということを、このように表現する。

人は意識のうえでは愛されないことを恐れているが、ほんとうは、無意識のなかで、愛することを恐れているのである。

 愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に、全面的に自分をゆだねることである。愛とは信念の行為であり、わずかな信念しかもっていない人は、わずかしか愛することができない。

 ほかには「ちいさな王子(星の王子様)」では「なつかせる」と表現する。

ちいさな王子
作者: Antoine de Saint-Exupéry
ページ数: 174ページ
出版社: 光文社
発売日: 2006年9月7日

ちいさな王子

「ううん。友だちがほしいんだよ。『なつかせる』ってどういう意味なの?」
「それはね、つい忘れがちなことなんだよ。『きずなを作る』といういみなんだ」
「きずなを作る?」
「そうだとも。ぼくにとってきみはまだ、たくさんいるほかの男の子たちとおなじ、ただの男の子でしかない。ぼくにとっては、きみがいなくなったってかまわないし、きみだって、ぼくなんかいなくてもいいだろ。でも、もしきみがぼくをなつかせてくれるなら、ぼくらはお互いが必要になる。きみはぼくにとって、この世でたった一人のひとになるし、きみにとってぼくは、この世でたった一匹のキツネになるんだよ・・・・・・」

Antoine de Saint-Exupéry 『ちいさな王子』

そりゃ、通りすがりの人にとっては、ぼくのバラもきみたちと区別がつかないだろうね。でも、きみたちみんなを集めたよりも、あの一輪のバラのほうが大事なんだよ。だってぼくが水をあげたのはあのバラなんだもの。ガラスのケースもかぶせてあげた。ついたても立ててあげた。毛虫だって退治してあげた(チョウチョになれるように、二、三匹は残しておいたけど)。ぐちだって、自慢話だって聞いてあげたし、何もいわないときだっていっしょにいてあげたんだ。だって、ぼくのバラなんだもの

Antoine de Saint-Exupéry 『ちいさな王子』

時間をかけて世話したからこそ、きみのバラは特別なバラになったんだ。

Antoine de Saint-Exupéry 『ちいさな王子』

 すなわち愛そうとすることにコミットしなければ、いくら最初に好きだったとしても、時には逆らえずただの人になってしまうのであろう。

 そして、愛そうとすることにコミットするためには、同時に受け取ることも非常に重要となる(両面となる)。一馬は文乃の笑顔を十分に受け取って、文乃は一馬から様々なことを受け取って、だからうまく回っていこうとする(実際はうまく回るかどうかはまた少し違うのかもしれないが、ヴィジョンとしては)。これを受け取ってもらわなかったら、やる気が失せるしどんどん負の方向に行くのは容易に想像可能である(その意味で、受け取るということも実は自分を超えていくということになる)。実際過去の自分を振り返っても、受け取らなかった自分は相手をどんどんと負の方向に持って行ってしまった。

 そして、このことたぶん人だけではなく、仕事に対しても同じなのだろうと思うようになった。何かおもしろいものを与えてもらうのではなくて、自分がコミットすることでその仕事を好きになっていく。もちろんおもしろいことを自分で探すのも重要なのだろうけれども、それはあくまでも種に過ぎない。その仕事を最大限におもしろく感じるためには、それに対してどれだけ愛そうとコミットするか、育てるのかによるのかもしれない。

 これは、茂木健一郎による「脳を活かす勉強法」にも通じる。

脳を活かす勉強法
著者: 茂木健一郎
ページ数: 192ページ
出版社: PHP研究所
発売日: 2007年12月4日

書評: 脳を活かす勉強法

 あの書評では書かなかったようだけれども(あれはひどい書評かもしれないw)、かの本での重要な点の一つは「どう自分を喜ばすか?」であった。そのために少し高いハードルを掲げて、それを達成することで快感を得るということをしたのであった。快感を得ることで、さらに自発的にやろうとする。それは先に記した、愛したことでさらに愛情が引き出されるということに他ならないのではないか?

 さらには、どこかで書いたかもしれないが、先日放送されたNHKのプロフェッショナル仕事の流儀という番組のイチローが出演した回において、イチローは自分自身が満足屋であることを語っていた。何かを成し遂げたときにまずは大満足をして、満足しきる。そうすると次に進むべき道が見えてくると。ただしこの二つの間には、重要な点が一つ隠されているような気がする。満足することで自分が好きになるし、やっていることも好きになるということである。

 これらのことは久しぶりに出すけれども、ヴィジョン心理学でも言っていた。

傷つくならば、それは愛ではない
著者: Chuck Spezzano
ページ数: 471ページ
出版社: ヴォイス
発売日: 1997年11月1日

 この本?だったか忘れたけれども、仕事に対しても与えることが重要であるというのを読んで、はぁとしか言えなかったのだけれども、もう少し深いところで感じられるようになってきたかもしれない。

 いささか多くの文献を引きすぎて非常に長くなってしまったが(すみません)、こんな風に様々なことが実に抽象化すると一点に集まるように絡み合っているのが自分には見て取れる。

 愛情というのは強力なコミットを如何にしてするのか?ということによるものではないか?といよいよ思えてきた。それをどうやって自分を超えてコミットすればいいのか?まだ答えが出ていないところではあるが・・・。

 目標まで残り179冊。(いつも以上に文章が雑多になってしまってすみません。)