自分を大切にするということ

 最近はいつにもまして物事を考えていないので、文章が出てこないのですが、たまには書いてみよう。前にも同じことを書いていたかもしれないですけれど、特に思想の変化はないということです。

藩金蓮の「アダルトビデオ調教日記」 – 妻に欲情しない夫

 いつも、藩金蓮さんのblogを拝読させていただいていて、読んでいる範囲では同じようなことを考えていて、文章がとてつもなくうまいので、もうこんな拙い文章を載せるのは恥きわまりないのですが、まあ書きましょう。

 と、リンクしていて特に言及するというわけではないと思います(予定?)。

 最近まで、自分を大切にするとか自分を愛するとかそういうことがまったくわからなかった。

 そういうのって、自身のある人がすることだし、なんか嫌みっぽいし、それ以前に自分に自信があるということ自体がどういうことなのかわからなかった。どうせ自分なんかと思っていたから。

 それで、ようやく自分を愛するということがどういういうことなのか少しずつわかってきた気がする。たぶん、それは自分自身を受け入れることなのではないかと。弱い自分、どうしようもない自分を自分自身で受け入れる、肯定すること。成長は大事だけれど、その前にそれでもいいよと受け入れる。

 人間は結構弱い存在で、ともすれば自分を肯定できなくなってしまって、他人にその肯定を求めてしまうのだと思うのだけれど、他人にその義務なんざこれっぽっちもなくて。家族であろうが、恋人であろうが、友達であろうが・・・。本当は。今はそう思ってる。

 このニーチェの一文は恐ろしく核心を突いていて大好きだ。

いったいあなたに泣き言を云わせた第一の原因は何だったのか?誰ひとりあなたに十分に媚びてくれなかったということだ。— そのためあなたはこうした汚物の中に座り、それによって大げさに泣きたてる理由ができたというわけだ。— それによって、多くの復讐を遂げる理由を手に入れたというわけだ!お体裁屋の狂人よ、つまり、あなたの口角の泡は、すべて復讐なのだ。わたしには見え透いている!

Friedrich Wilhelm Nietzsche『ツァラトゥストラはこう言った』

 そして、人は自分の弱さを受け入れることができて、自分を大切にできて、自分を愛せて、初めて他人を本当に愛することができるのだと思う。だから、自分にとっては、自分を大切にする = 自分を愛する = 自分を受け入れるということ。

 自分の自信を受け入れずに、他人を愛するというのは往々にして、他人の愛を要求することになる、そんな気がしてる。自分は愛しているのだから、あなたも愛してね、そんな押しつけがましい偽もの愛、要求。

 とかく自分がそうだった(今も?)。

 自分自身が藩金蓮さんの文章に出てきそうなどうしようもない男。自分ではないかと思えるほど(笑)。

 自分の痛い過去をさらすのはなかなか難しい。しかも、ひどい自分というのをさらすのは。

 自分に自信がないから、他人によって自信を得ようとする。そのくせ、自分を受け入れられていないから、受け入れようとしない、他人をコントロールしようとする。まるで子ども。まるで子ども。

 結局彼女のことをさんざ、傷つけたあげく振ってしまったのだけれど、なぜもっとこういう大切なことに気がつかなかったのか?今でも自分がにくいと思う。

 それから、いろいろなことがあって心理学を勉強するようになった。それは自分を知るため。心理学が本当かどうかわからないけれども、かなり今までの経験に照らし合わせてみると本質的なことを言っているんじゃないかと直観はしている。

 パートナーは鏡だそうだ。

 未だ、自分を正当化しないけれど、自分が全部悪いとも思っていない。というか、善い悪いの単純な二元論的区別はしたくない。そう思うようになった。自分も、偽物の愛をむさぼろうとしていたけれど、それはお互いだったと思う。〜してくれないの投げ合い。

 そこで、善い悪いを決めつけて攻撃するのは簡単だけれども、自分はそれだけはもうしたくない。そうしてしまったら、全部否定することになってしまう。それは断固したくない。

 善いものも見方を変えれば悪いものに十分になりうるし、悪いものも見方を変えれば十分によいものになりうる。それ以前に、本当に善いとか悪いとかそういうものはないんじゃないか?と思う。

 自分もいろいろな「呪い」が残っていて解こう解こうともがいてはいるけれど、なかなか解けない。でも、まあそんな自分もありなのかもしれないと、とりあえず笑い飛ばして、前に進むしかないのかもしれないね。

 いつかは自分自身を十分に自分で愛せるようになりたい。

 だからこそ、このニーチェの言葉は自分にとってとてつもない輝きと重みをもって迫ってくる。

そしてまことに、自分を愛することを学ぶということ、これは今日明日といった課題ではない。むしろこれこそ、あらゆる修行の中で最も精妙な、ひとすじなわではいかない、究極の、最も辛抱のいる修行なのだ。

Friedrich Wilhelm Nietzsche『ツァラトゥストラはこう言った』

 だいぶ眠いのでこの辺で。もうちょっとうまくかけるといいなぁ。