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O’Reillyの電子書籍iPhoneアプリから.epubファイルを自作する

O’Reillyでは低価格で電子書籍のiPhoneアプリケーションを配布しています。

このように600円とか700円とかのものが非常に多いです。
こんな低価格でも十分太っ腹なのに、さらにすごいのは、アプリを解凍してあげれば中にEPUBフォーマットで作成されたフォルダがまんま入っていて、自由にMacからでも見ることが出来る点です。

当のO’Reillyのサイトにもやり方が書いてあります。
Ebook Bundles – Getting The Most

  1. iTunesで購入した本を選択し右クリックし、「Finder」を選択。
  2. そのアプリのファイル(〜.ipa)を探す(多分すでにフォーカスが当たっている)。
  3. そのアプリのファイルを別のところにコピーし、拡張子をzipにリネーム。
  4. zipを解凍し、中に入っているPayload/bookというフォルダがEPUBフォーマットになっている。
  5. さらにその中のOEBPSフォルダを開けばxhtmlがあるので、それを表示させればMacでも表示が出来る。

せっかくEPUBフォーマットになっているのですから、ここはiPadのiBooksで表示させたい。
ということで、.epubファイルを作成します。

  1. bookフォルダ以下のMETA-INF, mimetype, OEBPSの3つのフォルダを選択する。
  2. 右クリックし「3項目を圧縮」を選択。
  3. 出来たzipファイルの拡張子を.epubに変更する。

あとはiTunesにドロップしてあげましょう。
まだiPadを持っていないので、実際にiBooksに転送して見ることは出来ませんが、今から非常に楽しみです。

P.S.
Mac/iPhoneアプリもあるStanzaでも転送することが出来、表示することが出来ました。1

参考文献

  1. もともとのO’ReillyのiPhoneアプリのバックエンドはStanzaですから当たり前といえば当たり前ですが・・・。 []

「英語順! しゃべれる英文法」を読みました。

抽象的な原理を学ぶことは、一見パターンから外れたものを考えるときに、威力を発揮する。

英語順! しゃべれる英文法
著者: 西巻尚樹
ページ数: 199ページ
出版社: あさ出版
発売日: 2006年11月25日

この本は、I am up for cakes all the time. が「ケーキは別腹」というように、今までの学校文法では解釈が難しいような「簡単な動詞 + 簡単な前置詞」の組み合わせで表現される例文を、どのように解釈したらよいのか?ということについてその考え方、ロジックを教えてくれる。

基本的な動詞は、その動詞自体が持つ意味を抽象的にぼやかしておいて、前置詞のような修飾語を使われると初めて意味が立ち上がってくるように作られている。
このために非常に柔軟であり、かつ膨大なパターンが考えられる。
この場合それを解釈するためのロジックがないと、全部暗記しなければならないようになってしまう。

そこでこの本でそのロジックを学ぼうという触れ込みになっている。

基本的なロジックは次のようなものである。

  • 動詞は動詞であるから、主語がどのような状態にあるのかとか、主語が目的語をどうするかとかなどのことを意味している。
  • その後ろにある前置詞は、上記動詞による動作がどのように行われるのか?もしくはその動作が行われた結果どうなるのか?などを副詞的に修飾している。

たとえばkeep up withとcatch up with、この二つについては、動詞の違い、つまりkeepはその状態を維持する、catchは捕まえるというところから違いが出てくるということになる。
また共にupは「一定の状態にあがるとか、なる」とかいう意味になるので、keep up withは「〜と一緒にいる状態になることを維持している = 〜についていく」と解釈できるし、catch up withは「〜と一緒にいる状態になることを捕まえる = 〜に追いつく」という風に解釈ができる。

I am up for cakes all the time. の方はというと、わたしは常にケーキに対しては一定の状態(準備ができている状態)であるということになり、ケーキは別腹という風に解釈ができる。

この本を読んでいたら、今まで本当になんにも考えずに覚えていたのだなということがよくわかった。

もちろん完全にロジックで説明し尽くすということは難しく、所々無理矢理感はある。
そう感じるのは、自分が英語の感覚を理解していないということからくるのかもしれないので、これについての判断はまだできないのではないかと考えている。
とりあえず頭の中にこういう風に解釈するのだということを入れておいて、あとはたくさんの例文に触れるようにすると、言語ではなかなか説明できない実際のニュアンスとのギャップを埋めることができるのかもしれない。

薄い本にもかかわらず英文1文1文を考えながら読み進めると、なかなか時間がかかる。
しかしながら練習をするということは、自分の内面に落とし込むためにとても大切で、そこを乗り越えると腑に落ちてくる瞬間が訪れると自分は信じている。
ロジックと練習、これらは車の両輪である。

USBバーコードリーダーとGoodreadsによる蔵書管理

最近、USBのバーコードリーダーを購入しまして、蔵書をGoodreadsというサイトに登録しています。
自分の書庫はここにあります。

機能的には申し分なく、そこまで重くもなく、タグも自由につけることができます。
特にタグ付けの機能は秀逸で、read, to-read, current-readingのような排他的なもの(読んだのと、読みたいのと、現在読んでいるのとはどれも重なりませんよね)と、種類のような協調的なものとを作り分けることができます。
排他的なものは2種類はできないようですが、まあいらないでしょう。

さらにCSVファイルにISBNコードを書いておいて読み込ませると、勝手にリストに付け足してくれますので、楽ちんです。

そこでこのCSVファイルを作成するためのUSBバーコードリーダーがお出ましということになります。
今回、購入したのはこのバーコードリーダーです。

エフケイシステム CCDバーコードリーダー USBインターフェイス TSK-U

これはキーボード代わりとして使えるので、MacでもWindowsでもUNIXでもLinuxでも(たぶん)問題なくつなぐだけで使えます。
さらに改行も同時に入力してくれることができるので1 、Excelを広げておいてどんどんピッピと取っていけば、たちまちのごとくリストができあがります。
肝心の読み取り精度も全く問題がなく、瞬間的にバーコードを取ることができます。

そんなわけで、取り込んだものをGoodreadsに放り込んでいます。
今のところ本棚の半分???ぐらい終わったでしょうか?
まだまだ先は長いです。

  1. 設定で改行コードも指定することができます []

「iPodは何を変えたのか?」を読みました

iPodは何を変えたのか?
著者: Steven Levy
出版社: ソフトバンク クリエイティブ
ページ数: 368ページ
発売日: 2007年3月29日

この本はiPodが産まれたことで、世界の何が変わったのか?ということに焦点を当てた本である。
ただ、それだけではなくどのようにしてiPodが産み出されたのか?ということについても普段聞くことのできないSteve JobsやJonathan Iveなどの開発者自身が何を考えて作ったのか?ということも書かれている本である。

その前者、すなわち世界がどう変ったのか?ということに関してはだいぶん提灯ぎみ、誇張しているように見えるが、これは日本とアメリカの違いなのかもしれないので、なんとも言えない。
たぶん、それだけしかこの本に書かれていなかったなら、自分がこの本をいちおう最後まで読みとおすことはなかったと思う。

大事なのは後者の部分である。
Appleがどのようにして物作りをしているかということを改めて再確認できる。

それは、Appleが製品を出す際には、どれだけヴィジョンや哲学を第一にして作っているかということである。
この製品はどうあるべきか?ということが第一にあって、そこから細部が決められていく。
そのヴィジョンがあるからこそ、今まで常識的には考えられなかった物が産みだされていく。

その一つが本書でも触れられている電源ボタンの必要性。
普通に考えれば、電源ボタンを用意することは「当たり前」 だと思われるが、iPodはそれをなくし自動的に段階的にスリープしてくように設計されている。
このような考えは、ヴィジョンに照らし合わせて本当に必要か否かを考えなければできないし、これが彼らの考えるデザインそのものであるように見える。
ヴィジョンという曖昧模糊とした問題に対して、その問題の本質とは何か?と考え、それを解決する答えを導き出す、それがデザインになっている。
なんだか以前、フジテレビで「ニューデザインパラダイス」の冒頭で、谷原章介があるものが産まれた過程について話し「これがデザインです」と言っていたのを思いだす。

Steve Jobs自身もこのことについて本書で、こう語っている。

iPodは何を変えたのか?」より引用

果物だから、リンゴ。このシンプルさこそが究極の洗練なんだ。僕らがこの社名で表現したいのは、こういうことさ。人が最初に問題にぶち当ったときには、単純な方法で簡単に解決できるように見える。それは、まだ問題の複雑さを理解していないからだ。でも解決策が単純すぎたら、それはうまくいかない。そうしていったん問題の細部に足を踏み入れると、そこではたくさんの問題が複雑に入り組んでいることがわかってくる。込み入った問題のそれぞれに、手の込んだ解決策を考え出さなきゃならなくなるわけだ。たいていの人はこの段階で止まってしまう。確かにこういう方法でもその場しのぎはできるからね。でも、本当に優秀な人材はそこに留まらずに、問題の背後にある本質を見つけ出す。そして、美しくて簡潔明瞭で、しかも見事に機能する解決策を思いつくんだよ

Steven Levy 『iPodは何を変えたのか?』

そして、彼らはこの問題解決を、他の企業ではありえないほど狂信的におこなう。
「常に狂信的に拘り続け、問題を解き明かそうとすること」、それが世界で最も革新的でSexyな物を産み出す原動力になり他社が追いつけない理由にもなっているのだ。

「はじめの一歩を踏み出そう — 成功する人たちの起業術」を読みました

はじめの一歩を踏み出そう — 成功する人たちの起業術
著者: Michael E. Gerber
出版社: 世界文化社
発売日: 2003年5月

この本は、起業をするときに陥る罠を分析し、どのようにして経営していくべきかについて書かれた本である。
自分なりにそのポイントの中心となる部分を意訳してみると、「経営をサイエンスにする」ということではないかと思っている。

単なる「やり方」のみを書くのではなく、なぜそう考えるかという哲学の部分がしっかりと書かれているため、他の本とは一線を画す。

さて、最初に「経営をサイエンスにする」ということがこの本のポイントであると書いた。
なのでまず、サイエンスにするということがどういう意味か書かなければならない。

サイエンスにするとは、個々人の能力に依存することなく、こう経営すればこうなるという意味で一般化するというつもりで書いている。1
 そのためたぶん、厳密なサイエンス、科学というもので言葉を使ってはいないので、その点了承されたい(ぉぃ。

なぜサイエンスにする必要があるか?

では、なぜ経営をサイエンスにする必要があるのか?
これには少なくとも2つの理由がある。

1つめは、仕事が明確になること。

人は枠組みがないと行動しづらい。
自由に行動してくださいといわれて、なかなかその場でいきなりうまく行動できる人はいないだろう。
それに明確な行動の基準がないと、どう評価したらいいのかもわからない。

また、起業をしようとする人に目を向けてみると、そういう人には「起業家」、「マネージャー」、「職人」の3人の異なる人格が存在し、それらが争うことにより行動に一貫性がなくなるというのを、これにより防止するためということ。
それらの人格の特徴を知り、バランスよくそれらを発揮することで明確に意志決定が可能となる。
それらをうまく統合する方法というのが本書で書かれている方法であり、経営をサイエンスにするということである。

2つめは、事業とその起業家を切り離す必要があるということ。

これは起業家自身の問題だけではないのだが、企業が特定の人に依存するということになると、その人が病気になったり辞めてしまった場合など、持続可能性がめざましく低くなってしまうためである。 
このことは、逆にいえば誰にもできるようでなくてはならないということであるから、自ずと仕事が明確になりゴールが見えるようになる。 

そして起業家と事業を切り離すことで、起業家が事業以外にもやりたいことなど人生をもっと楽しむという方向に目を向けることが可能となる。

サイエンスにするためには何をしたらいいか?

サイエンスにするためには何をしたらいいか?ということは、先に挙げた1つめに大きく関わってくる。
すなわち仕事を明確にすることである。
それには、本書ではマニュアルを作成することが重要であると解いている。

マニュアルにすることで、やるべきことが明確になり、さらに批判が可能になる。
マニュアル化 = 機械化、非人間化のためというステレオタイプな理由ではなく、批判する題材にすることでさらなる飛躍を目指すというためにおこなう。

この一連の流れを、この本では「イノベーション」 → 効果の「数値化」 → マニュアル化 → イノベーション → ・・・と表している。
この本でいうイノベーションとは新しいことを実行することで、それは現状を批判することからしか生まれない。

また、このマニュアルというものは、末端の社員だけがやる訳ではない。
上位の人たちが行う仕事を明確にするためにも、このことをが必要であると本書では説いている。

能力を育てる足場としてのマニュアル

いずれこのマニュアル化について深く掘り下げるつもりではあるが、マニュアル化というものが考える足場になっているような気がする。
繰り返しになってしまうが、人間は自由にやりなさいといっても考える足場がないと、どうして良いかわからず考えるのではなく悩んでしまう。
悩んでいるというのは考えているようでいて、何も考えていない状況であって(つまりぼーっとしているのと変わらない)、ゆえにこうしたマニュアル化というのを考えないと生産性がとても落ちてしまうし、本当に数少ない少数のアーティスティックな才能だけに依存してしまうと考えられる。

マニュアル化を行いそれを繰り返すことで無意識化することが出来るというこの仕組みは、以前「愛に生きる — 才能は生まれつきではない」で紹介したような手法であり、単に仕事だけではなく、様々な能力を育てる足場となるように思えた。

この本は、 このように単に起業の仕方だけではなく、人生哲学や能力などを発展させるためのヒントを与えてくれるという意味でも、とてもよく書かれていると感じた。

  1. ただ実は未だにこの部分がしっくり来ないで使っているので、公開するのに時間がかかってしまった。 []

「レボリューション・イン・ザ・バレー — 開発者が語るMacintosh誕生の舞台裏」を読みました

この本はそのオリジナルのMacintoshの開発の舞台裏を開発者自らが描いた本である。

レボリューション・イン・ザ・バレー ― 開発者が語るMacintosh誕生の舞台裏
著者: Andy Hertzfeld
出版社: オライリー・ジャパン
発売日: 2005年9月

奇しくもMacintoshは今からほぼ25年前の1月24日、1984年1月24日に発表された。
現在では、このときの発表の様子はYouTubeで観ることができる。

自分とMacとの出会いはそんなに昔のことではない。
ずっとMS-DOSやWindowsを使っていたのだから。 

AppleがIntelに移行することを知ったあのWWDC 2005で、Macを使ってみたいと思うようになった。
それまではあまりにもあの帝国にがんじがらめにされていて、そのほかのことを考えるなんてことはあり得なかった。

そしてMacworld 2006で初のIntel MacであるMacBook Proを見たとき、少し失望した。
あまりにも性能に対してMacBook Proが高すぎたからだ。1

結局その後で、デュアルコアCPUを搭載したノートブックをいち早く買いたかったのでVAIO type SZを購入してしまった。

しばらくして、5月の下旬にMacBookが発表された。
こちらはProとは違い、十分に価格性能比がよかった。
あのすてきなボディーに見せられてついポチッてしまったのだった。 

買った当初は慣れなかったのでVAIOばかりを使っていた。
でも、このままでは埃をかぶると思って意図的にMacBookを使い始めた。

そうして使い始めたのだけれど、美しいプロポーショナルフォントや統一されたデザインといった見た目、UNIXであるという中身、そして何とも口では言いがたい哲学から、いつの間にやらVAIOを使うことはなくなった。

Macを形作っているものの一つは哲学であると、この本は思い出させてくれる。
そして、開発者たちはいかに非凡であり、既存のものにとらわれずに、その哲学やヴィジョンに夢を描き、とてつもない情熱と愛情と独創性でMacintoshの開発を進めていったのかが、手に取るようにわかるだろう。
読んでいると、自分たちが世界で最も革新的なコンピュータを作成し、世界を変えてやるんだという情熱が、その楽しさが、今でもフォルテッシモの波となって伝わってくる。

この本を読んでいるとそのようなドキドキ、ワクワク感を自分も心から感じざるを得ない。
創造性というものがいかにすばらしいものなのか、 タイムマシーンに読み手を乗せて教えてくれるのだ。

レボリューション・イン・ザ・バレー — 開発者が語るMacintosh誕生の舞台裏」より引用

熱意は人から人へと伝わるものだ。作るのが楽しい製品は、使うのも楽しい可能性が非常に高い。オリジナルのMacintoshのチームが持つ緊迫感、功名心、卓越に対する情熱、芸術家としてのプライド、そして恐れを知らないユーモアなどが製品を通して伝わり、Macintoshのスピリットをその時代のデベロッパや顧客に吹き込んだ。それは20年以上経った今でも、影響を与え続けている。 

Andy Hertzfeld 『レボリューション・イン・ザ・バレー — 開発者が語るMacintosh誕生の舞台裏』
  1. 出荷されるときにCPUが強化されたが、それでも他のWindows機に比べて高かった。現在はそんなことはなく、妥当な値段かむしろ安い。 []

「愛に生きる — 才能は生まれつきではない」を読みました。

愛に生きる — 才能は生まれつきではない
著者: 鈴木鎮一
出版社: 講談社
発売日: 1966年8月

実は読んだのはだいぶ前なのですが、ずいぶんとブログに載せるのに時間がかかりました。

著者は様々な「天才的」なヴァイオリニストを育てた鈴木鎮一。
本書は、どのようにしてそのような世間一般が「天才的」と呼ばれる人々を育てたのか?について記述されています。

なぜ、わざわざ「天才的」とカギ括弧付きにしているのかというと、この本でも書かれているようにそこに本質的なことはないからです。
著者はよい能力が身につくというのは、よい環境やよい育て方次第であるとし、前書きにこんなことを書いています。

愛に生きる — 才能は生まれつきではない」より抜粋

わたしが二十年来やっている才能教育運動も、外国では正しく受け取られているのに、日本国内では、いまだに一種の天才教育として評価されています。しかし、この本を読んでいただければ、そうではないということが、すぐにおわかりいただけると思います。好ましくないひとに育ったのは、好ましくない育てられ方をしたのだ、できないひとになったのは、できないひとに育てられたのだ、ということも納得していただけると信じてます。

鈴木鎮一 『愛に生きる — 才能は生まれつきではない』

作者はどのようにして才能を育てる方法の根幹について気がついたか?

さて、冒頭、著者がどのようにしてよく育てられる方法について気がついたのか?それは、日本人の皆が日本語を話しているということに気がついたときでした。
難しい言葉が使えるか否かということは抜きにして、日本で育っているならばほとんど皆日本語で不便なく会話が出来ます。

さらに大阪で育ったなら、大阪弁。
広島なら、広島弁。
津軽なら、津軽弁。
と、その土地土地に応じた言葉を自然に身につけていくのです。

ではなぜ、そのようにして言葉を習得できるのか?ということが問題になります。

この問題に対して筆者はセキセイインコに言葉を覚えさせることから考えてゆきます。
筆者の友人がセキセイインコに言葉を覚えさせたときのこと。
まず、ピーコという名前を覚えさせました。
そのために、ピーコという言葉を毎日50回約2ヶ月で3,000回ほど繰り返し聞かせました。
するとピーコというようになったそうです。

今度はミヤザワという名字を覚えさせます。
おもしろいのはここですが、それにはたった200回でよかったそうです。 

この二つの事項に能力開発の本質が隠されています。

  • 繰り返し、繰り返し、繰り返すこと。
  • 初めは習得するのが遅いが、習得したことにより加速度的に、指数関数的に能力が増加する。

どうやって教え方を考えるか?

一つ気になることがあります。
この本では筆者が考えた教え方がいくつか出てきます、例えば指が動かないと訴える子どもに対して、最初はゆっくり練習し、少しずつ速く指を動かすようにして生きなさいと教えます。
ヴァイオリンだけではなく、工場の生産性が悪いというときに、工員の方にピンポンをやらせることで頭の回転が速くなり、生産性がアップするのではないかと助言をしてみたり。

気になるのは、このようなオリジナルな教え方はどこからどう考えてわいてきたのか?という点です。
その哲学がわからないと、筆者のいう「正しい努力」というものが行えません。 

ある程度、想像は付きます。
脳は急に何かができるようになる訳ではありません。
指を動かしたり、生産性をアップするためには脳の回転速度が重要です。
だから、成功体験を積み重ね、それを少しずつアップさせるような練習をさせるということです。

このように色々な教え方が出てくるのは、常日頃教え方について考えていたからでしょうか?
もっと脳の仕組みについて知って、ここら辺を考えたいと思います。 

この本には能力、そしてそれをどう伸ばすかについて興味深いことが本当に色々と書かれています。
ヴァイオリンだけではなく、記憶力、そして遊ぶことなど。
それでも、筆者は鉄則である繰り返すということ、その一点を大切にして応用していることがわかります。

最後にこの本の核となるところをいくつか引用して終わることにしましょう。1

愛に生きる — 才能は生まれつきではない」より抜粋

どの子も育つものであり、それは育て方ひとつにかかっている。だれでも自分を育てることができ、そしてそれは正しい努力ひとつにかかっている。

鈴木鎮一 『愛に生きる — 才能は生まれつきではない』
愛に生きる — 才能は生まれつきではない」より抜粋

自分の能力の育ちについても迷信的であってはなりません。まして、才能の有無に藉口して、自分の努力を放棄するなど、ただ卑怯だというほかありません。

鈴木鎮一 『愛に生きる — 才能は生まれつきではない』
愛に生きる — 才能は生まれつきではない」より抜粋

なにごとにもあれ、道をひらくということは、新しい能力をつくることです。行動が伴わなければ、なにを思い、なにを反省しても、なにもならない。ですから、行動する、実行する能力を作る—このことをわたしたちは忘れてはならないのです。

くり返しくり返すことによってなにごとも身につく、能力となる。この鉄則をここでも生かし、どんな小さいことでも、気づいたことはすぐ実行に移す。自分をむち打ちむち打ち、へこたれないでやり抜く。—これが身につき習慣になれば、わたしたちは、不可能と考えられたことも可能になり、閉ざされた道もひらけてくることを、わたしはいろいろなばあいに発見します。

“やればできる”といういい古されたことばを、単なることばととってはいけないし、ひとごとだと思ってもいけない。すべてのひとに、それはあてはまる事実なのです。

鈴木鎮一 『愛に生きる — 才能は生まれつきではない』
  1. その時歴史が動いた」風。あの音楽を脳内で再生してください。 []

「魔法遣いに大切なこと」を読みました

知り合いのサブカル好きの人がオススメしていた、「魔法遣いに大切なこと」という漫画を買って読みました。

魔法遣いに大切なこと 〜 夏のソラ 〜 (1)
著者: よしづきくみち
出版社: 角川グループパブリッシング
発売日: 2008年6月26日

 

魔法遣いに大切なこと 〜 夏のソラ 〜 (2)
著者: よしづきくみち
出版社: 角川グループパブリッシング
発売日: 2008年12月20日

国家資格の「魔法士」という資格が存在する、魔法遣いが存在する世界、それがこのお話の舞台です。
主人公はそんな魔法士になるために、北海道の美瑛(いつか行ってみたいですね)から東京に半年間研修を受けに来た、鈴木ソラ。
ただし、彼女には理由があってどうしてもこの半年で魔法士の資格を取得しなければなりません。

物語は、そんな東京での研修のお話。 

この研修でソラは「人の心に寄り添う魔法」というのを教わります。
それは単純に依頼に応えて魔法を遣うのではなく、その依頼者の心に寄り添う、心を受け止めること。
そのため、必要がなければ魔法は遣わないという選択肢もある。

なんだか人の心に寄り添うように話を聴く、心理療法の話を聞いているような気がしました。

残念だったのは、せっかく話がふくらませそうなのに読み切りっぽく2巻で終わってしまったこと。
一巻でその「人の心に寄り添う魔法」ということに気がついたのだから、もっともっと魔法士の資格を取ってからの孤軍奮闘が描けたのではないか?とおもってしまいます。1
どうしても半年以内に取得しなければならないというその理由があるために、(良い意味でも悪い意味でも)こうなったのかも知れませんが、どうしてももったいないと感じざるを得ません。 

よかったから、もったいない。
主人公のピュアさや話自体はとても惹かれたし、自分の時間というものがこうして1秒1秒短くなっているんだということを改めて身につまされ、心のおくがぐるぐるしました。

どうしたらその1秒1秒短くなっていくんだということをありありと実感できるのか?それがまだ今の自分にはわからない。
どうしたら、どうしたらそれが心の底からわかるようになれるんだろう?

読んでよかったとおもいました。

  1. 漫画を書いてことがないのに上から目線ですが・・・ []

「山月記」を読みました。

有名な小説なので、昔どこかで読んだことがあるような気がするけれど、読んでみた。

山月記・李陵 他九篇
著者: 中島敦
出版社: 岩波書店
発売日: 1994年7月

青空文庫でも読むことが出来る。
中島敦 山月記

文庫本では10ページ足らずで、お手軽。 お手軽ですが、そのお手軽さに釣り合わないくらいすばらしい文章で、自分を鏡の前に立たせてくれる。

短いから、ネタバレしても良いだろうか?

主人公の李徴は博学才穎で役人として働いていたが、昔から夢見た詩人になりたいと仕事を辞めた。
それから仕事を辞め念願の詩人となる訳だが、これが売れない。
そのため、ついに貧乏に耐えられず役人に戻る。
しかしながら、今度は昔見下していた他の役人はずっと出世してその命令を受けることに耐えられない。
そして出張で出かけた際に、虎になってしまうというお話。

その後、李徴の数少ない旧友である袁傪が、出張で虎になった李徴にたまたま出くわす。
そのとき、李徴は袁傪に虎になってしまった理由について、自らの考えを述べる訳だけれど、それが以下の部分。
この文章がまるで今の自分を表すかのように迫ってくる。

山月記」より抜粋

人間であった時、己は努めて人との交を避けた。人々は己を倨傲だ、尊大だといった。実は、それがほとんど羞恥心に近いものであることを、人々は知らなかった。もちろん、かつての郷党の鬼才といわれた自分に、自尊心が無かったとはいわない。しかし、それは臆病な自尊心というべきものであった。己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。かといって、また、己は俗物の間に伍することも潔しとしなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為である。己の珠に非ざることを俱れるが故に、敢て刻苦して磨こうともせず、また、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出来なかった。己は次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙恚とによってますます己の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。これが己を損い、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、己の外形をかくの如く、内心にふさわしいものに変えてしまったのだ。今思えば、全く、己は、己の有っていた僅かばかりの才能を空費してしまった訳だ。人生は何事をも為さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短いなどと口先ばかりの警句を弄しながら、事実は、才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭う怠惰とが己の凡てだったのだ。  

中島敦 『山月記』

自分もやりたいやりたいといいながら、自分の実力を露呈してしまうことを避けているとしか思えない。
やりたいことならば、それをどんどんアウトプットしてよくなっていくべきだのに、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心により踏み出していない。

自分の中の固定観念、それは例えば点数が悪いということ = 今の自分の状態を客観的に評価し、どこが弱点がさらけ出すことという本来の意味ではなく、点数が悪い = 自分自身がダメ。
もちろん、点数が付くなんてことはこの年になってしまえばあまりないことでだけれど、同じようなことなのだと思う。

そして心の奥で自己否定的な自分、ダメな自分を求めている。
変化を求めると言いつつ、自分の実力のなさをさらけ出して理想とするところの距離を測ろうとするのではなく、実際は自分の実力のなさを自分はダメなんだという自己否定の理由付けに利用している。
つまりは、自分はダメなんだという状況にいたいがために、自分の実力のなさを晒そうとしない。 

これでは、上で引用した李徴と全く同じではないか。
この場合の羞恥心というのは、そのままでいたい、自分を守るために利用しているのだから。
口先ばかりの警句を弄しながら、実際は何もやっていない、李徴と同じではないかと。

ただ、気づくことは変わることへの第一歩。
気づけば、変わるチャンスがあり、気づいてしまえばカンタンに変わることが出来る。1

  1. 「カンタンに」というのは敢えて書いている訳です。 []

Amazon.co.ukで購入しました

一時GBP/JPYが250だったのに、現在は130というポンド安に乗って(約半額)、Amazon.co.ukで洋書を購入しました。
生まれて初めてAmazonで購入したのはAmazon.co.ukでしたので、懐かしい気持ちになりました。
ほとんどの場合、Amazon.comよりも安く購入することができます。

購入したのは以下の5冊

£74.85、送料£19.94、合計£94.79でした。
クレジットの明細が来ていましたが、購入したときのGBP/JPYは133円ぐらい、1.63%のチャージがかかるので結局のレートは135.794でした。
ということで、請求されたのは12,872円ということになりました。
Amazonはクレジットカードへの請求が早いので比較的レートが変動しないで購入できるのが嬉しいです。

ちなみに、日本のAmazonで購入するとしたら、PoEAAがなぜかマーケットプレースでしか扱っていませんが、マーケットプレースの最安値を使って合計すると22,161円になりました。
ということで10,000円近く安くなっています。

注文時間は24日の午前5時、発送されたのは24日の午後10時(いずれも日本時間)です。
そして本日31日に到着しました。
特に痛みもなく良好な状態でした。