Monthly Archives: December 2007

小説と自分を導く真理とアダルトビデオ

小説を読む人は、フィクションの中に、自分を導く真理を見つけようとする傾向がある。でも、小説を読み慣れない人間からしてみると、架空の人物の台詞なんか、まったく重みがない(どうせ作りものだ)。だから、ノンフィクションの中で真理を探そうとする。

 自分は普段はあまり小説を読まないのだけれども、森博嗣がこんなことをblogに書いていて、自分のやっていこうとしていることが言語化され、がつんとやられた気がした。

 ヘルマン・ヘッセの「シッダールタ」の書評にも同じようなことを書いたのだけれど、「自分を導く真理」(自分を導くという修飾語はさすがだと思った)というものは日常至る所に転がっているのだと思う。

 それは日常生活であり、小説にもあり、映画にもあり、音楽にもあり・・・。

 最近は少しでもそういうものを見つけようという気持ちがあるので、たとえばこれも以前書評した「対岸の彼女」もとても小説には読めずに哲学書に思えて仕方がなかった。

 この森博嗣の言葉を読んだときに、もう一つ思い浮かべたのは藩金蓮さんであった。

 普通は真理がなさそうに思えるようなアダルトビデオにも実は真理があるのだと、それらのビデオとはたぶん切っても切り離せないのであろう自身の体験と交えて語るその姿勢は、わたしには非常に衝撃的だった。考えてみれば、人間の欲望そのものであるからして、そこに真理がないわけがないのであるのに、そんなことには気づきもしなかった。

 そして、その中には欲望だけではなく、寂しさなど、人間の根源的なものに近いものであるからこそ、実は純粋に人間を描き出していた、描き出すことが可能だったのだということに気づかされた。わたしは、自分を導く真理は日常至る所に転がっているのだということを頭で判るのではなく、少しずつ心で解るようになってきたのかもしれない。

自分はあんなに多くの愚かさ、あんなに多くの悪徳、あんなに多くの迷い、あんなに多くの不快さと幻滅と悲嘆とを通り抜けねばならなかった。それもまた子どもにかえり、新しく始めるためにすぎなかった。だが、それはそれで正しかった。

(中略)

慈悲を体験し、ふたたびオームを聞き、ふたたび正しく眠り、正しく目ざめうるには、絶望を体験し、あらゆる考えの中でいちばんばかげた考え、つまり自殺の考えにまで転落しなければならなかった。ふたたび生きうるために、罪を犯さねばならなかった。

抵抗を放棄することを学ぶためには、世界を愛することを学ぶためには、自分の希望し空想した何らかの世界や自分の考え出したような性質の完全さと、この世界を比較することはもはややめ、世界をあるがままにまかせ、世界を愛し、喜んで世界に帰属するためには、自分は罪を大いに必要とし、歓楽を必要とし、財貨への努力や虚栄や、極度に恥ずかしい絶望を必要とすることを、自分の心身に体験した。

すてきな字

 すてきな字というか、美しい字というかそういう字を書く人に以前からすごく憬れています。

 好きだった人(過去形でいいのかな?)の字はとてもきれいで、そんな字になりたいなぁと思っていて練習をしたときがありました。

 ふと、ほぼ日刊イトイ新聞の「すてきなふだん字。」という企画を見ていたら、一文目がこんなコピー。

好きな人の字をまねしたら、
その人みたいになれるのかな?

 やられました。

 完全に。

 「ああ!そういうことだったのか!!!」とすとんと言葉が胸に落ちて、心に落ちました。

 正直、このコピーでおなかいっぱいになってまだ内容を読んでいません(笑)。でも、それぐらい自分にとって衝撃的な言葉でした。

ツンデレカルタ

 朝、たまたま早起きして、めざましテレビをちょこっと見ていたら、カルタ特集なんていうのをやっていました。

 その中で出てきたのが「ツンデレカルタ」。今やテレビはこんなのも特集するんだなぁなんて見ていたら、アヤパンがやってくれました。

 正直吹き出しそうになりました。

 はてなブックマークを見ていたら、これがおいてあってさすがYouTubeですね。

努力と才能と遊び

才能って、
「努力を惜しみなくできる力」なんです。

 わたしは「努力」ということばを信じませんが、それはただ単に才能に至るような「努力」が存在するかしないかの問題だと思っているので、この言葉にかなり同意です。

 超一流な才能に至るような「努力」というのは、たぶんやっている本人にとっては「努力」とは感じていないのではないか?という感じがしています。どうも「努力」という言葉に付いているイメージは、嫌々やりましたというイメージ。

 対して超一流といわれるような人々にしばしば見られるのはそうではなくて、たぶんもうやりたくてやりたくて仕方がないような、そういう状況にあるのではないかと思うわけで、これを「努力」と呼ぶのはいかがなものか?と思うわけです。ですので、たぶん本人たちは遊び感覚でやっている。

 もう一つここには隠されていてそれは密度。やりたくてやっている状況というのは非常に密度が高い。どなたかもいっていると思いますが

才能 = 遊び(好きの度合い)の度合い × 時間 × 密度

だと考えられます。

 そういうことを思っていると、天才というのはこの才能のかけ算の各項目が常人よりも遙かに突き抜けているのではないかと考えられます。

 では、この式の数字を上げるためにはどうしたらよいのかは、、、好きになることしかないのかなぁ?というありきたりな答えになりそうです///

 浅いエントリになってしまった・・・。

書評: ヘルマン・ヘッセ 「シッダールタ」

シッダールタ
著者: Hermann Hesse
ページ数: 164ページ
出版社: 新潮社
発売日: 1971年2月

 この本は、主人公シッダールタがいかにして宗教的な覚醒を得たのかを綴るフィクションでありながら、それはヘッセ自身の宗教的体験に強く根付いている(らしい)。 タイトルおよび主人公の名前の「シッダールタ」というのは、仏陀の本名、ガウタマ・シッダールタから。この本には仏陀は出てくるのだけれど、主人公シッダールタは別人である。

 語彙力がなく陳腐な表現しかできないのだけれど、とてつもなく文章が豊かで美しかった。それは高橋健二氏の訳がよいということもあるのかもしれない。

 一番心を打たれたのは、やはりクライマックスのシッダールタが達した「真理」 1 を友である、ゴーヴィンダに語ったところ。

 特にこの一文に打たれた。

抵抗を放棄することを学ぶためには、世界を愛することを学ぶためには、自分の希望し空想した何らかの世界や自分の考え出したような性質の完全さと、この世界を比較することはもはややめ、世界をあるがままにまかせ、世界を愛し、喜んで世界に帰属するためには、自分は罪を大いに必要とし、歓楽を必要とし、財貨への努力や虚栄や、極度に恥ずかしい絶望を必要とすることを、自分の心身に体験した。

 この一文が自分を打ったのは、まさに自分が立っているところだからだと思われる。理想へのギャップに抵抗している自分。

 わたしは宗教(宗教性)は必要だと思っている。

 ただしそれは何かに依るというのではなく、自分自身で体験という形で見出すべきなのだろう。体験することの意義は、頭で判ることと、心で解ることは全く異なるからである。気づく目を持っていれば、日常生活から十分に学び得ることは十分に可能だろう。

 だけれども、気づく目を養うことはなかなかにして難しい。往々にして火のない所に煙は立たないのである。だからこそ既存の宗教という物があるのではないのか。

 自分にとって既存の宗教というものは、あくまでもこういう考え方がありますよということを示す観光客用のロープウェイやヘリコプターみたいなもので、それ以上のものではない。断食やらそのほかの宗教的儀式も、そういうような手っ取り早く登るための手段に他ならないのではないかと、わたしは考える。 2

 ということを思っていると、それは教養というものと等価であると、今のわたしには見える。野中郁次郎氏が日経新聞で記した教養とは何かという、まさにこれである。

 歴史学者阿部謹也氏によれば、教養とは「人と人との関係性のなかで自分の立つ位置と社会のためになにができるかを知ろうと努力している状態」だという。その根底にあるのは「いかに生きるべきか」という構えである。

 日常の経営は、日々変化する個別具体の一回性の出来事への対応である。したがって、一般的な論理分析型モデルだけではその本質を理解できない。繊細な観察から日常見過している「あっ」という気づき(文学的感性)から、その背後にある真善美の根拠を考え抜き(哲学的思考)、起承転結の物語(歴史的流れ)のなかで、適時の判断と行為を起す状況認知能力が必要である。これは自らの生き方に照らし、特殊(個別)のなかに普遍(本質)を見る教養の能力である。

野中郁次郎 『日経新聞夕刊 あすへの話題』

 日常生活で起こったことに対して、宗教の教義で説明されていた説明を当てはめることで、その出来事に対しての理由、根拠を深く知る。それにより理由がわからないという不安を消し、自己の成長も期待できる。

 だとするならば、気づく目を養うという意義において、既存の宗教をいくつも学ぶというのは大切なことであろう。しかるに、その意義を十分に理解して、飲み込まれないように注意しなければならない。そして、自分にとって必要なところを、自分の心が選び取る物を信頼し、自分にとっての「真理」を紡いでいけばいいだけのことだと思う。 3

 そうであるからして、そのような他人の精神的・宗教的な「真理」は批判などできない、批判する物ではないという意識が必要なのかもしれない。

 「シッダールタ」の話からだいぶ遠いところに来てしまったような気がした。

 ヘッセは「シッダールタ」で、「真理とは何か」ということを伝えたかったのではなく、「如何にして真理を得たか」を伝えたかったようである。

 もしかしたら、同時にヘッセは、「では、あなたは如何にして真理を得るか?」と尋ねているのかもしれない。そうであるならば、上記の文章は非常に浅いながらも、その答えになったであろうか? 4

  1. あくまでシッダールタが達したもの。 []
  2. 断食や苦行に耐えたってそんなにすぐには見つからんよと反論されてしまう気もするが・・・。 []
  3. あくまでも精神的なことに対してであって、当たり前だけれども科学とは違う。 []
  4. え、なってないって??? []

自信を持つということ

 先日、資生堂の方のTSUBAKIのマーケティングのお話を聞きました。もとより、マーケティング、広告、コピーライターなどに興味があったので、楽しみにしていたのですが、期待を大幅に上回る内容でした。

 後でほかの方の指摘で気がついたのですが、その方は非常に自信を持っていらっしゃる。そして、だからこそ、これ!と決めて猛進していける、そんな感じでした。

 その飲み会の席で、企画に参加した先生ともお話をしたのですが、自信というのは自分で作っていく、作っていけるものなのではないでしょうか。残念ながら確証はありません。確証はありませんが、限りなく真理の匂いがします。

 そんなことをつらつら考えていて、三つの言葉が思い出されました。

 一つ目はWalt Disneyの言葉。

夢を現実にする方法を知る者にとって、高すぎる目標はありえないのではないか。秘密は4つのCにあるようだ。好奇心(curiosity)、自信(confidence)、勇気(courage)、そして一貫性(consistency)だ。そのなかで一番重要なのが、信じる時には、徹頭徹尾それを信じて疑うな。ただし、騒々しくならないように。

Walt Disney

 二つ目は松岡修造の言葉。

何が来ても強いイメージを持って、自分が一番だっていう想いを、どうにかして表現できる力を持ってほしい

松岡修造

 そして、三つ目はどこかの本で読んだ、本当にうまくいく場合というのは根拠のない自信があるときという言葉。これは、すごく自分で納得しました。

 薬学部への入試(ほかのところは全く自信がなかったけれど、唯一受けた薬学部は絶対の自信がありました。落ちるはずがないと)、薬剤師国家試験(これも卒業試験ではぼろぼろでしたが卒業できると思っていたし、国家試験にも受かると思っていた)、大学院入試と試験ばっかりですが、根拠のない自信があるときはもれなくうまくいっている 1

 本当に創造的なことをしていくとき、それは前例がないことです。答えがない。誰も正解を知らない。誰も保証はしてくれません。もし、周りの人間が動いてくれるとして、自信がない人に対して動いてくれるのか?といわれれば、たぶんNoだと思われます。そして、ほとんどのことは一人では出来ない。であるならば、もう自分で自分を励ますしかない。自分で自信を持ち、周りを励ましていくしかない。

 これは、こと恋愛でも変わらないことのように思います。いつも引用するココヴォコ図書館のすばらしい言葉です。

多くの場合、「愛情への渇望」と言うのは、「自己存在に対する不安」と表裏一体をなしている。自分が何者かわからない。自分がどのような価値を持っているのかわからない。だから、他者に愛されるということにおいてのみ、自分の存在を安心できる。我々はそのような状態に陥りやすい。ニーチェ風に言うならば、これは愛の流刑地ならぬ、愛のルサンチマンだ。ルサンチマンとは、単に「ねたみ」だけを表すのではない。原義でいうならば、感情が逆転していること、すなわち、常に相対的な評価でしか、感情を作りえないことを指す。この場合、常に他者から「愛される」ことにおいてのみ、自分の存在が安心できることを、指している。だけど、そういう風にやっていると、いざすべての他者がいなくなったときに、誰が一体あなたの存在を受け入れるのか。自らの存在を受け入れるのは、結局自分自身でしかないし、世界の中心で叫ぶべきは、他者愛ではなく、自己愛であると僕は考える。

 わたしには、これらが一つの真理に対するアプローチの違いにしか思えません。

 であるからして、自分はどうしたらもっと自信を持てるのか?、もっと自信を持っていこうということに対してコミットメントをすることにするのです。松岡修造のいうように世界へ行けるんです。

  1. え?失敗した時を覚えていないだけだって? []

怨み屋本舗スペシャル!!!

 新ナイトライダーの新K.I.T.T.にはがっかりしまくりですが、こちらは期待できそうです。

 大好きなドラマ「怨み屋本舗」のスペシャル版がいつの間にか決定していました。このドラマは普通にタブーを描いてしまうし、独特の世界観だし、大好きです。木下あゆ美の魅力も爆発してました。

怨み屋本舗

 出演者も変わっていないみたいだし、1月6日の22:00(時間大事!!!)からということで、今からめちゃ楽しみ〜。うまいことそのままのクオリティーでいって欲しいな!

いつになったら

 いつになったら日本国民の財産であるNHKの全映像が、日本国民に無料で自由に見られるという、当たり前の状況になるのでしょうか?

 たとえば、DVDであれば、実費としてメディア代やDVDを作るに当たっての編集代を取るのは問題ないと思うけれども、なぜにそれで儲けようとするのか?意味がわかりません。

 そのくせ、他国には平気で無償提供とかしちゃうという精神。なんなんでしょうかね?

写経

 物事をやるのに、写経という方法はなかなか意義深いものなのかもしれないなぁと、1年くらい前から思い出す。気づいたきっかけは今はなきベーマガ。

 きっとあの頃(80年代)の凄腕プログラマはみんなベーマガを写経しているはずだと思ってる。

 自分は面倒くさがりでしなかったなぁ。

 誰かが言っていたような気がするけれど、最適化をかけるという意味で面倒くさがりであるのはいいけれど、本当の面倒くさがりにはなってはいけないという言葉が痛いほど身にしみるね。

 きっと守・破・離と同じで、写経しているうちに無意識に「型」が出来るんだと思う。

 面倒くさがらずに何でも写経しよう。写経。

減りが異常に早い???フリクションボール

 熱によって消せるボールペンのフリクションボールなのですが、少し前に使い始めたのにもう出なくなりました・・・。インクの残量が見えないようになっているので、本当になくなってしまったのかどうかよくわからないですが。

 ネットでちょっと検索してみても減りが早いという意見がちらほら見えるので、やっぱり早いのかもしれません。

 個人的に消せるというのはメリット大なので購入しますが、せめてインクの残量がわかるようになって欲しいところです。