小説と自分を導く真理とアダルトビデオ

小説を読む人は、フィクションの中に、自分を導く真理を見つけようとする傾向がある。でも、小説を読み慣れない人間からしてみると、架空の人物の台詞なんか、まったく重みがない(どうせ作りものだ)。だから、ノンフィクションの中で真理を探そうとする。

 自分は普段はあまり小説を読まないのだけれども、森博嗣がこんなことをblogに書いていて、自分のやっていこうとしていることが言語化され、がつんとやられた気がした。

 ヘルマン・ヘッセの「シッダールタ」の書評にも同じようなことを書いたのだけれど、「自分を導く真理」(自分を導くという修飾語はさすがだと思った)というものは日常至る所に転がっているのだと思う。

 それは日常生活であり、小説にもあり、映画にもあり、音楽にもあり・・・。

 最近は少しでもそういうものを見つけようという気持ちがあるので、たとえばこれも以前書評した「対岸の彼女」もとても小説には読めずに哲学書に思えて仕方がなかった。

 この森博嗣の言葉を読んだときに、もう一つ思い浮かべたのは藩金蓮さんであった。

 普通は真理がなさそうに思えるようなアダルトビデオにも実は真理があるのだと、それらのビデオとはたぶん切っても切り離せないのであろう自身の体験と交えて語るその姿勢は、わたしには非常に衝撃的だった。考えてみれば、人間の欲望そのものであるからして、そこに真理がないわけがないのであるのに、そんなことには気づきもしなかった。

 そして、その中には欲望だけではなく、寂しさなど、人間の根源的なものに近いものであるからこそ、実は純粋に人間を描き出していた、描き出すことが可能だったのだということに気づかされた。わたしは、自分を導く真理は日常至る所に転がっているのだということを頭で判るのではなく、少しずつ心で解るようになってきたのかもしれない。

自分はあんなに多くの愚かさ、あんなに多くの悪徳、あんなに多くの迷い、あんなに多くの不快さと幻滅と悲嘆とを通り抜けねばならなかった。それもまた子どもにかえり、新しく始めるためにすぎなかった。だが、それはそれで正しかった。

(中略)

慈悲を体験し、ふたたびオームを聞き、ふたたび正しく眠り、正しく目ざめうるには、絶望を体験し、あらゆる考えの中でいちばんばかげた考え、つまり自殺の考えにまで転落しなければならなかった。ふたたび生きうるために、罪を犯さねばならなかった。

抵抗を放棄することを学ぶためには、世界を愛することを学ぶためには、自分の希望し空想した何らかの世界や自分の考え出したような性質の完全さと、この世界を比較することはもはややめ、世界をあるがままにまかせ、世界を愛し、喜んで世界に帰属するためには、自分は罪を大いに必要とし、歓楽を必要とし、財貨への努力や虚栄や、極度に恥ずかしい絶望を必要とすることを、自分の心身に体験した。