Category Archives: Psychology

blog を書くということ

このブログは2006年の7/30に開始したようです。

WordPressへ | cocoa*life

それ以前は他のところで書いていたと思いますが isweb だったかな?忘れちゃったけど。こちらに移ってきたのでした。

ちょっと前にこのサーバに使っているさくらインターネットから、更新のお知らせが来て、1年間で5,000円の請求が来ました。

このときちょっと迷いました。最近書いていないし、年間5,000円というのは今の自分には決して軽い金額ではないと。でも続けることにしました。

話は飛びますが、友達と昨日話していたときに、昔、ねじまき鳥クロニクルを読んで自分を救わなければならないと思い、そこから人生が少しずつ変わっていったという話をしました。

ねじまき鳥クロニクルのどこかに、そのような自分を救うことが書いてあったかなと思い、調べてみたところ、自分のこの blog がヒットするだけでした。

人生のパスを変える | cocoa*life

懐かしいなと思いつつも、他の部分を読み返してみたところ、当時の自分はこんなことを考えていたのかとちょっと新鮮で、驚きでした。
読み返してみると、当時の自分が何をしようとしていたのかよくわかります。本を読み、いろいろと客観視をしようとしていたこと。それをさらに文章にすることが手助けしてくれる。そうして自分の内面と闘っていたということがよくわかりました。

このように思考の変遷が残っているというのは自分にとってはとても大事なことなのではないかと感じました。日常生活ではどうしても見返すことが少なくなり、多くの大切なことを忘れてしまいます。

こんなことを考えていたら、また blog を書こうと思いました。ただし、内面を書くことがある程度ありそうなので、ここに書くかどうかは迷っています。

「愛に生きる — 才能は生まれつきではない」を読みました。

愛に生きる — 才能は生まれつきではない
著者: 鈴木鎮一
出版社: 講談社
発売日: 1966年8月

実は読んだのはだいぶ前なのですが、ずいぶんとブログに載せるのに時間がかかりました。

著者は様々な「天才的」なヴァイオリニストを育てた鈴木鎮一。
本書は、どのようにしてそのような世間一般が「天才的」と呼ばれる人々を育てたのか?について記述されています。

なぜ、わざわざ「天才的」とカギ括弧付きにしているのかというと、この本でも書かれているようにそこに本質的なことはないからです。
著者はよい能力が身につくというのは、よい環境やよい育て方次第であるとし、前書きにこんなことを書いています。

愛に生きる — 才能は生まれつきではない」より抜粋

わたしが二十年来やっている才能教育運動も、外国では正しく受け取られているのに、日本国内では、いまだに一種の天才教育として評価されています。しかし、この本を読んでいただければ、そうではないということが、すぐにおわかりいただけると思います。好ましくないひとに育ったのは、好ましくない育てられ方をしたのだ、できないひとになったのは、できないひとに育てられたのだ、ということも納得していただけると信じてます。

鈴木鎮一 『愛に生きる — 才能は生まれつきではない』

作者はどのようにして才能を育てる方法の根幹について気がついたか?

さて、冒頭、著者がどのようにしてよく育てられる方法について気がついたのか?それは、日本人の皆が日本語を話しているということに気がついたときでした。
難しい言葉が使えるか否かということは抜きにして、日本で育っているならばほとんど皆日本語で不便なく会話が出来ます。

さらに大阪で育ったなら、大阪弁。
広島なら、広島弁。
津軽なら、津軽弁。
と、その土地土地に応じた言葉を自然に身につけていくのです。

ではなぜ、そのようにして言葉を習得できるのか?ということが問題になります。

この問題に対して筆者はセキセイインコに言葉を覚えさせることから考えてゆきます。
筆者の友人がセキセイインコに言葉を覚えさせたときのこと。
まず、ピーコという名前を覚えさせました。
そのために、ピーコという言葉を毎日50回約2ヶ月で3,000回ほど繰り返し聞かせました。
するとピーコというようになったそうです。

今度はミヤザワという名字を覚えさせます。
おもしろいのはここですが、それにはたった200回でよかったそうです。 

この二つの事項に能力開発の本質が隠されています。

  • 繰り返し、繰り返し、繰り返すこと。
  • 初めは習得するのが遅いが、習得したことにより加速度的に、指数関数的に能力が増加する。

どうやって教え方を考えるか?

一つ気になることがあります。
この本では筆者が考えた教え方がいくつか出てきます、例えば指が動かないと訴える子どもに対して、最初はゆっくり練習し、少しずつ速く指を動かすようにして生きなさいと教えます。
ヴァイオリンだけではなく、工場の生産性が悪いというときに、工員の方にピンポンをやらせることで頭の回転が速くなり、生産性がアップするのではないかと助言をしてみたり。

気になるのは、このようなオリジナルな教え方はどこからどう考えてわいてきたのか?という点です。
その哲学がわからないと、筆者のいう「正しい努力」というものが行えません。 

ある程度、想像は付きます。
脳は急に何かができるようになる訳ではありません。
指を動かしたり、生産性をアップするためには脳の回転速度が重要です。
だから、成功体験を積み重ね、それを少しずつアップさせるような練習をさせるということです。

このように色々な教え方が出てくるのは、常日頃教え方について考えていたからでしょうか?
もっと脳の仕組みについて知って、ここら辺を考えたいと思います。 

この本には能力、そしてそれをどう伸ばすかについて興味深いことが本当に色々と書かれています。
ヴァイオリンだけではなく、記憶力、そして遊ぶことなど。
それでも、筆者は鉄則である繰り返すということ、その一点を大切にして応用していることがわかります。

最後にこの本の核となるところをいくつか引用して終わることにしましょう。1

愛に生きる — 才能は生まれつきではない」より抜粋

どの子も育つものであり、それは育て方ひとつにかかっている。だれでも自分を育てることができ、そしてそれは正しい努力ひとつにかかっている。

鈴木鎮一 『愛に生きる — 才能は生まれつきではない』
愛に生きる — 才能は生まれつきではない」より抜粋

自分の能力の育ちについても迷信的であってはなりません。まして、才能の有無に藉口して、自分の努力を放棄するなど、ただ卑怯だというほかありません。

鈴木鎮一 『愛に生きる — 才能は生まれつきではない』
愛に生きる — 才能は生まれつきではない」より抜粋

なにごとにもあれ、道をひらくということは、新しい能力をつくることです。行動が伴わなければ、なにを思い、なにを反省しても、なにもならない。ですから、行動する、実行する能力を作る—このことをわたしたちは忘れてはならないのです。

くり返しくり返すことによってなにごとも身につく、能力となる。この鉄則をここでも生かし、どんな小さいことでも、気づいたことはすぐ実行に移す。自分をむち打ちむち打ち、へこたれないでやり抜く。—これが身につき習慣になれば、わたしたちは、不可能と考えられたことも可能になり、閉ざされた道もひらけてくることを、わたしはいろいろなばあいに発見します。

“やればできる”といういい古されたことばを、単なることばととってはいけないし、ひとごとだと思ってもいけない。すべてのひとに、それはあてはまる事実なのです。

鈴木鎮一 『愛に生きる — 才能は生まれつきではない』
  1. その時歴史が動いた」風。あの音楽を脳内で再生してください。 []

頭から抜けない「魔法遣いに大切なこと」

以前、エントリにもした「魔法遣いに大切なこと」。

魔法遣いに大切なこと 〜 夏のソラ 〜 (1)
著者: よしづきくみち
出版社: 角川グループパブリッシング
発売日: 2008年6月26日

これがなぜだかわからないけれども、どうしても頭から抜けなかった。
数日間、ふと目ざめる瞬間、あの漫画が頭によぎってしまう。 

漫画なのにおかしいと言われれば確かにその通りなのだけれども、色々なことを悩んでしまうのだから仕方がないと思う。

そこで、少し突っ込んで感じたことを書いていこうと思う。
ただ、感情的なことを綴っているので、こういう思いに至っている背景もわからないだろうし(とても全部書ききれるものではありません)、いつもよりも余計わかりにくい文章になっています。1

以下ネタバレを含むので、注意してください。 
Continue reading

  1. こういう感情的な文章をきちんと書けるのが小説家なんだろうな。無意識にあるものを文章として吸い上げることが出来るような。 []

「山月記」を読みました。

有名な小説なので、昔どこかで読んだことがあるような気がするけれど、読んでみた。

山月記・李陵 他九篇
著者: 中島敦
出版社: 岩波書店
発売日: 1994年7月

青空文庫でも読むことが出来る。
中島敦 山月記

文庫本では10ページ足らずで、お手軽。 お手軽ですが、そのお手軽さに釣り合わないくらいすばらしい文章で、自分を鏡の前に立たせてくれる。

短いから、ネタバレしても良いだろうか?

主人公の李徴は博学才穎で役人として働いていたが、昔から夢見た詩人になりたいと仕事を辞めた。
それから仕事を辞め念願の詩人となる訳だが、これが売れない。
そのため、ついに貧乏に耐えられず役人に戻る。
しかしながら、今度は昔見下していた他の役人はずっと出世してその命令を受けることに耐えられない。
そして出張で出かけた際に、虎になってしまうというお話。

その後、李徴の数少ない旧友である袁傪が、出張で虎になった李徴にたまたま出くわす。
そのとき、李徴は袁傪に虎になってしまった理由について、自らの考えを述べる訳だけれど、それが以下の部分。
この文章がまるで今の自分を表すかのように迫ってくる。

山月記」より抜粋

人間であった時、己は努めて人との交を避けた。人々は己を倨傲だ、尊大だといった。実は、それがほとんど羞恥心に近いものであることを、人々は知らなかった。もちろん、かつての郷党の鬼才といわれた自分に、自尊心が無かったとはいわない。しかし、それは臆病な自尊心というべきものであった。己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。かといって、また、己は俗物の間に伍することも潔しとしなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為である。己の珠に非ざることを俱れるが故に、敢て刻苦して磨こうともせず、また、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出来なかった。己は次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙恚とによってますます己の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。これが己を損い、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、己の外形をかくの如く、内心にふさわしいものに変えてしまったのだ。今思えば、全く、己は、己の有っていた僅かばかりの才能を空費してしまった訳だ。人生は何事をも為さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短いなどと口先ばかりの警句を弄しながら、事実は、才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭う怠惰とが己の凡てだったのだ。  

中島敦 『山月記』

自分もやりたいやりたいといいながら、自分の実力を露呈してしまうことを避けているとしか思えない。
やりたいことならば、それをどんどんアウトプットしてよくなっていくべきだのに、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心により踏み出していない。

自分の中の固定観念、それは例えば点数が悪いということ = 今の自分の状態を客観的に評価し、どこが弱点がさらけ出すことという本来の意味ではなく、点数が悪い = 自分自身がダメ。
もちろん、点数が付くなんてことはこの年になってしまえばあまりないことでだけれど、同じようなことなのだと思う。

そして心の奥で自己否定的な自分、ダメな自分を求めている。
変化を求めると言いつつ、自分の実力のなさをさらけ出して理想とするところの距離を測ろうとするのではなく、実際は自分の実力のなさを自分はダメなんだという自己否定の理由付けに利用している。
つまりは、自分はダメなんだという状況にいたいがために、自分の実力のなさを晒そうとしない。 

これでは、上で引用した李徴と全く同じではないか。
この場合の羞恥心というのは、そのままでいたい、自分を守るために利用しているのだから。
口先ばかりの警句を弄しながら、実際は何もやっていない、李徴と同じではないかと。

ただ、気づくことは変わることへの第一歩。
気づけば、変わるチャンスがあり、気づいてしまえばカンタンに変わることが出来る。1

  1. 「カンタンに」というのは敢えて書いている訳です。 []

よしもとばなな「彼女について」を読みました

よしもとばななさんの新刊、「彼女について」を読みました。

ふとした瞬間に、どこかで新刊が出たことを知り、たぶんAmazon.co.jpかどこかの内容紹介を読んで、無性に読みたくなったのでした。

彼女について
著者: よしもとばなな
出版社: 文藝春秋
発売日: 2008年11月13日

せっかくだから、内容紹介のところを引用してみましょう。

由美子は、幼なじみのいとこ昇一とともに失われた過去を探す旅に出た。この世を柔らかくあたたかく包む魔法を描く書き下ろし長篇。

幸せの魔女が、復讐の旅にでた。どこまでも暗く、哀しみに満ちた世界を最後に救ったものとは―大きな愛に包まれる、ばななワールドの新境地。

一気に読んだ。
最後の方は祈るような気持ちで。
でもどうしようもなくって、切なくて悲しかった。
外で読んでいたのだけれど、涙があふれそうになった。
でもね、優しい気持ちにもとってもなれる。

読み終えたあと、余韻がぐつぐつ、どろどろと心の中を漂っていて、しばらく心そこにあらずという感じがした。
色々な未分化な感情が、ざらざらと金平糖みたいに混ざっていた。
今でもきゅーんとする。
とてもすばらしい小説だと思う。

あらすじは内容紹介のところで書かれているので十分かな?
とある悲しい事件で、失われてしまった主人公由美子の過去。
それを久しぶりに現れたいとこの昇一とともに一緒にたどり、二人手を取りながら、向き合うことで次第に過去が癒されていく。

心理療法でもそうみたいだけれども、本当に癒すというのは起こったことにきちんと向き合って、壮絶な感情を体験しつつも、心の中で意味づけ、物語にしていって、受け容れていく作業。
だから、とっても苦しい。

苦しいから、一人ではなかなかできなくて、たいていの場合こんな風に一緒にたどってくれる人が人には必要みたい。
一人じゃないと思えるから、向き合っていこうかなと思うのかも。

そして癒されるのは由美子だけではなく、一緒に旅をすることを決めた、昇一も。

途中にある

君の幸せだけが、君に起きたいろんなことに対する復讐なんだ。

よしもとばなな 『彼女について』

という言葉が真理を伝えていつつも、とっても優しい。
昔このことを自分が知ったときは、パウロさながら目から鱗が落ちた。
それをこんな風に小説に載っけてしまうのがすてきだと思う。

この小説を読んでいると、ばななさんがばななさん自身を癒そうとしているのかもしれないって思う。
この言葉も、彼女の中のもう一人の彼女に必死に言っているように聞こえる。

ばななワールドの新境地と書いてあるけれども、それは嘘で、彼女はいつも同じことしか書いていない。
それは悪い意味ではなくて、普遍的な神話としての意味では同じ話というだけ。
何回も書く必要があるんだと思う。

「WALL-E」を観ました

実は「ラースと、その彼女」の前に観ていたのですが、 書きそびれていました。
WALL・E/ウォーリー

とてもすばらしい映画でした。

無声映画と変わらないぐらい言葉が少ないのに、こんなにも感情が表せて、大事なことが表せて、さすがPixar、ジョン・ラセターだと思いました。

あらすじは、今から700年後の地球、人は皆ゴミの山のために宇宙へ飛び出していたのでした。
そんな中、一人でゴミを来る日も来る日もかたづけるロボット、WALL-Eがいました。
ゴミの中から見つけたお宝の中の一つ、ミュージカル「ハロー・ドーリ—!」のビデオを観て、誰かと手をつなぐことを夢見ていました。
そこへ謎のロボットEVEがやってきます。

WALL-EのEVEに対する愛情か、友情かわかりませんが、そのけなげさにいつしかEVEも同じような感情を抱くようになる。
たった小さなことが積み重なって、いつしか大切な気持ちになっていく。
それがとても丁寧に描かれていて、途中涙涙で、ラストは祈るような気持ちでした。

そしてきちんと人間の行く末を予期させるような展開も誰にでもわかりやすく描かれていたのが、さすがだと思いました。

そういえば、WALL-Eの充電完了、もしくは再起動の音がMacの起動音で笑えました。
とてもすばらしかったので、もう一度観たいです。

物語と癒し 〜 「ラースと、その彼女」を観ました

今年観た映画の中で(といっても両手で数えられる範囲だけれど)最もすばらしい作品でした。
12月20日(土)公開『ラースと、その彼女』公式サイト

正直これを観るまで、映画をあまり観たことがないので、映画という映像メディアでは小説や漫画で使えるモノローグによる心理描写ができないがために、心理描写というのは限界があるのではないか?と思っていました。
そんなことはないと、きちんと映像描写で心理描写ができるんだということを、教えてもらいました。

あらすじは、周囲に心を開かない青年の主人公ラースが、ある日兄夫婦にガールフレンドを紹介する。
そのガールフレンドのビアンカというのは、なんとインターネットで購入した等身大のラブドール
しかもラースはそれを生身の女性だと思って接している。

兄夫婦は面くらい、そこでうまく言って精神科のようなところに連れて行く訳です。
そして、そこで医者から言われたことは「ラースに付き合って、ビアンカが生身の女性だと思って接すること」。

最初は周りの人も面くらい、兄夫婦のお願いによってビアンカに接することにはしていますが、当然陰では蔑まれる訳です。
しかしながら、いつしか・・・というストーリー。

後半のクライマックスにかけての、そのいつしかのあたりのストーリー展開が非常にうまく、感激してしまいました。

映画の最初に医者が「ビアンカは意味があって現れた」と言うことを口にし、その現れた意味を医者がラースとともに探していきます。
つまりは、ビアンカが現れるという物語がどうしてラースによって描かれなければならなかったのか?

物語を描き、そして一緒に物語を共有していると、これがとてもおもしろいことに、心というものは勝手に治っていこうする。
ビアンカが発する言葉はラースの言葉であり、ビアンカによってラースは自分自身の心に直面し、客観的に観られるようになるから。

人が過去に心に受けた傷というものは、物語によって意味づけられ、直面させられることによって自身が癒されていく。
そういう物語の癒しの力というのを、改めてまざまざと見せつけられました。

ファンタジーではあるのだけれども、根底ではとてもあり得そうな、リアルファンタジーという触れ込みは全く持って嘘ではないのだと思います。
大事なのは個々の事例ではなく、その根底に流れる普遍的な物語であり、神話です。

あの出来事の解釈はどうしたらいいのかとか、心についてもっともっと学びたくなる、そんなストーリーでした。

「わたしを離さないで」を読みました

感想をどう書いていいのかさっぱりわかりません。
まだ感想を書ける状況にあるのかどうかもわかりません。

わたしを離さないで
著者: カズオ・イシグロ
ページ数: 450ページ
出版社: 早川書房
発売日: 2008年8月

数年前に単行本が出たときに読んでみたいなと思っていましたが、たまたま文庫本になっていたのを知り衝動買いをしました。

わたし、ルーシー、 トミーの3人が全寮制施設、ヘールシャムで織りなすどこにでもありそうな、たわいもない日常。
たとえ子どもであっても、本当は思っていることの正反対のことを言い、時にはけんかもし、人間関係に悩む。
その心の動きがわたし視点で丁寧に描かれる。

でも、この小説はそれだけではない。
冒頭から読者を惑わせる奇妙な違和感。

わたしは「介護人」であり「提供者」の介護をする。
しかし冒頭ではそれしか、「提供者」とはいったい何なのかわからない。
それがどういうことなのか?というのは抑制された筆遣いでゆっくりと明らかにされていく。

こんな誰にでもかけるようなことを書いて(このブログのエントリのこと)、でもその先が続かない。

たぶん言葉が続かないのは、あまりにも「ありそうだから」ではないかと思う。
ありそうとかいたのは、この(今の時点で見ると)奇怪な設定ではなく、上に書いた思っていることとは人間関係に悩む(もちろんそれだけではない)というような人間心理のこと。

「なさそうなこと」であるのであれば、いくらでも説明的に書いたりすることができるのではないだろうか?
逆に「ありそうなこと」というのは、その人間の内面に肉薄するがゆえ、言葉にならない、言葉にしにくいのではないだろうか。

優れた物語というものは、フィクションであるのにもかかわらず、それがフィクションでないような、そういうような感覚をもたらすのだと思う。
この小説はフィクションであって、きわめて現実に肉薄している、だから苦しい、そんな風に思える。

読み終わった後、何とも言えない感情の余韻におそわれて、心にこびりつきそうな、そんな感じがした。

モノローグと映画

何年か前に、自分はモノローグが大好きなんだということに気がついた。
とにかく心理描写がこってりしているのが好き。
フルーツバスケットのモノローグはものすごく好き。
登場人物の話す言葉と、その実際の心理との距離を丁寧に記していると思う。

以前、とある映画を見たときに期待しすぎたのか、なんなのか?すごく味気なく感じた。
それは今考えてみると、映像でモノローグを使うというのは大変に難しいからだろう。
映画でモノローグなんて使われたら、逆にしらけてしまう気がする。

ただ、一つ心配になるのは、モノローグを多用したものになれてしまうと、想像力がなくなってしまうのではないかということ。
たとえば、先の映画であればシーンから、心理を読み取れるかどうか?そういう感受性が自分の中に育つのだろうか?と。

マンガでは想像力が育たないという使い古された命題、それは本当だろうか。

「成功の心理学」を読みました

一部では有名らしい?「成功の心理学」という本を読みました。

成功の心理学 ― 勝者となるための10の行動指針
著者: Denis E. Waitley
出版社: ダイヤモンド社
発売日: 2003年8月

うん。
ほとんどのところは異論はないし、エッセンスがぎゅーっと詰まっていると思う。
そしてなんといっても成功(勝利)の定義がいい(それは読んでね)。

最後に訳した加藤諦三氏が、心の健全な人だと書いているが、まさにその通りかもしれない。
様々な観念を払拭し、自分自身がなりたい自分のための観念を作り出す。
それが健全な精神に繋がっていく。
そんなことじゃあるまいか?

序章の2行目に最も本質的なことが書いてある。

実際に体験する事柄によって人間的な違いが生じるわけではない。
その体験をどのように受け止めるかがカギになるのである

Denis E. Waitley『成功の心理学 ― 勝者となるための10の行動指針

これが本質的な責任ということなのだと自分は思う。

本も何度も読む必要があるように感じているので、この本は何度も繰り返し読むことにする。
何度も繰り返し読むことで、それが精神に刻み込まれる。