Category Archives: Psychology

「ぐるりのこと。」を観ました

映画「ぐるりのこと。」を恵比寿ガーデンシネマで観てきました。
ぐるりのこと。

今日(正確には昨日)は水曜日で男女ともに1,000円で観られる日だったので、何となくよかったです。

個人的には心理学的に突っ込みまくっていくのかなぁと思ったのですが、そうでもなかったのです。
でもそれは映画だから映像から視聴者が読み取ってくれってことなのかもしれません。
淡々と描いているのだなぁと思いました。

ただね、ここまで書いて、日常に本質が現れているのと同じように、淡々と描くことが実は本質を突いているのかもしれないね。
あれだけ長い場面をワンカットで撮っているのがすさまじいと思った。
妥協のなさなんだろうね。

ネタバレをしないように書くのは難しいけれど(できる限りわからないように?書いたつもり)、やっぱりあの場面、台風のあの場面ですよ。
あそこで、ああようやく本音が出てきたなと。

ため込んで、ため込んで、ため込んできた本音がようやく出てきた。

そしてその直前で、翔子さんが、「悲しい?それとも残念?」という問いかけ。
さらにその前での(うろ覚え)「楽しいとか、悲しいとかいってくれる?」という言葉。

たぶんこの二つのことが繋がっていて、「残念」というのと「悲しい」というのとでは自分の入れ込み方が違う。
残念という言葉では、相手が何を考えているのか見えなくなってしまう。
相手のことがわからない、わからない、寂しい。

そしてその本音が出てきたところで、その景色を一緒に見ることができるか?
相手の世界に入っていけるか、それとも逃げるのかが試される、そんな風に私は観ました。

もう一方で、何でこのカットをここにおいたのかという見方をしたのだけれども、まだまだ一回じゃわからなかったな。
映画って何度も観るものじゃないのかもしれないけれど、でも何度も観て、味わいたい気がした。

P.S.
もしかして、こういう感想文って全部が書ける訳じゃないから、何を書いて、何を書かなかったが大事なのか?
ついつい自分は全部を書こうとして破綻してしまう気がする。

やさしさの精神病理

そんな訳で、久々にまともに(終わってるな)本を読んだので、書評でも書きますか。

と書いたものの、アップロードしていなかった。
うまくまとまらなくても、ある程度の期間内でアップロードしないといけないのかも。

やさしさの精神病理
著者: 大平健
出版社: 岩波書店
発売日: 1995年9月

10年以上前の本ですが、鋭さは衰えていないし、ポケベルが出てくること以外は別に古さを感じさせなかった。

旧来のやさしさは他人と気持ちを共有するという、いわばねちっこい、この本ではホットなやさしさ。
一方で、現在ではそれとは打って変わって他人を傷つけないウォームな「やさしさ」だとしている。

席を譲ると老人扱いされてしまって傷つくかもしれないから譲らないという「やさしさ」。
敢えて他人にには踏み込まないという「やさしさ」。

半分以上こういった事象が語られており、そこに著者の解釈が所々に入る。

今は昔よりもこの状態から少し戻っているのではないかと思う。

インターネットが出現したこと。
それによって見ず知らずの人と気持ちを同調させることができる。
それは、友だちとか身近な人には「やさしさ」のため言えないことでも、ネット上の見ず知らずの人には言える(かもしれない)。

いま「ぐるりのこと」という映画がやっている。

この映画は子供を死なせてしまい鬱になってしまった妻に夫がずっと寄り添っているということでだんだんと立ち上がってくるという物語(だと認識している)。
今週あたり見に行きたいと思っているところですが、主演のリリー・フランキーがインタビューでとてつもなく重要なことを言っている。

今の人は相手の悪い部分を見るとすぐに別れてしまうから、女性誌の特集は“古い恋をリセットする方法”しかない訳で、“1人とずっと付き合う方法”なんて誰も思いつきもしない。そうやってスカスカな恋愛を繰り返しているんです

リリー・フランキーが語る理想の夫婦とは?「ぐるりのこと。」 – goo 映画

この映画の夫婦はこの本で出てくる「やさしさ」を主張する人たちとは全くの逆を行くのだと思う。

とここまで書いて、やっぱり映画を観ないとわからんなぁと思っていたので、続きは映画を観てから書こう(観ました)。

この本の最後には「選択がこわい」ということが書いてある。
これは痛いほどよくわかる。

全ては傷つくのがこわいという、もろさから。
本当に自分自身のこのもろさをよく感じる。

どうしたらこのもろさを突破できるのか?考えてわかるものなのだろうか?
気づいて、目をつむって歩き出すしかないような気もする。

昔と違って少しだけ変わったことは、未来はヴィジョンを持って自分で作って行くものだということに少しだけ気づいたということ。

なんだかうまくまとめられないなぁ。
一つのことに絞って書けばいいのかもしれないけれど。

機械アレルギーをどう超えるか

Crêpeをさわってもらったのですが、Crêpe自体の機能というよりも、機械アレルギーがとてもあるということの方が問題だなぁと思いました。

それは今までの機械によってうまくいかなかった(やりたいことと操作が直感的に結びついていない)という失望があるのかもしれないし、よくわからないメッセージを出すということもあるのかもしれないし、はたまた自分は機械に弱いという思い込みがあるのかもしれないし。

人の考え方を変えるのがほとんど無理なことと一緒で、人の発想を変えるのにもこれまたとてつもなく難しい。

察知力

今日もモーニング・ページをやりました。

察知力
著者: 中村俊輔
ページ数: 213ページ
出版社: 幻冬舎
発売日: 2008年5月

最近は本を買うのを自粛しているのですが、以前新聞を開いて(といっても最近は、日曜の書評と、半分より下側にある本の広告ぐらいにしか興味がないのですが)目にとまったのがこの中村俊輔による察知力。

そのときの広告にはたぶん、この本の裏表紙に書いてあることが書いてあったのですが、タイトルとそれでビビビと来た訳です。

自分より身体能力の高い選手と戦うには、相手よりも先に動き出すこと。そのときに必須なのが、瞬時に状況判断をして正解を導く力だ。それを、中村俊輔は「察知力」と呼ぶ。サッカーでは一瞬の判断が勝敗を決する。彼は、毎日の反復練習と情報収集、こまめな目標設定と自己反省を、特にノートに「書き付ける」ことで、自分を客観視し、この力を磨いてきた。世界から注目される名選手の心身鍛練術は“シンプルなことの継続”だった。

中村俊輔 著『察知力』

帰りに途中まで読みましたが、サッカーのことしか書いてありませんが、自分はサッカーのことは読んでいません。サッカーという単語を読者が読みたい○○○という単語で置き換えて読むことができる本です。

最初にモーニング・ページの話題を出しました。
この本を読みながら、モーニング・ページのことを考えていました。

あのモーニング・ページの一つの意味は先日も書いたように頭の中をはき出すということです。
そしてもう一つの意味は、自分を客観視するということです。

彼はサッカーノートに自分が考えていたこと、これからしなければならないことを記し、それが客観視することに繋がったと書いています。

試合前に、試合でのテーマ、何を意識してプレーすべきかを書く。

そして、試合が終わったあと、試合を振り返り、試合の感想から始まって、攻撃面でのよかったところ・悪かったところ、守備面でのプラス・マイナス、僕個人のことだけでなく、チーム全体のことなど、気がついたことはなんでも書いた。チームメイトはもちろん、気になった相手選手についても書いた。

明日からの練習で、やらなくちゃいけないこと、補わなくちゃいけないことについても。どんな練習をすれば、足りない点を伸ばせるのか? など、いろいろ考えて書きまくった。

書くという作業をすることで、自分の気持ちや考えを整理できる。それを繰り返すうちに、自分のことを客観的に見つめることができるようにもなった。ノートを書くことで落ち着けるし、過去の自分の歩みが綴られているから、時間が経ってからそれを読むと、いろんなことを再発見できる。

中村俊輔 著『察知力』

今、ここで心理療法における客観視、そしてこの自分自身の能力を伸ばす上での客観視とを、もう数冊、たとえば苅谷剛彦 著の「知的複眼思考法」などから引用して書いてもいいのかもしれないけれども、あまりにも長くなりそうなので止めておきます。
でも、個人的にはこの客観視ということにかなり注目しているってことが書きたかったのです。

個人的にはかなりすごい本だと感じました。

重い話を聴く方法

5年前は重い話を聞いても、自分自身に遙かに余裕がなかったということもあって、自分自身がさらに重くなるだけで、いやになって逃げ出した。

さっきとある人の重い話をメールで返信しつつ自分を観察して思ったのは、重い話に対して何か良い案を出そうとするから、自分の中でさらに重くなってしまっていやになるということ。いわば???、食物連鎖の濃縮みたいなことが起こっていた。

重い話を聞く → どうしたらいいかとか案を考えようとする → いいように思いつかない → 無価値感を感じる → いやになる

もしくは

重い話を聞く → どうしたらいいかとか案を考えようとする → よかれと思っていったことが相手に対してさして意味をなさない → 無価値感を感じる → いやになる

もしくは

重い話を聞く → どうしたらいいかとか案を考えようとする → 何回も同じ話を繰り返される(相手の中でまだ消化できていないということ)→ 無価値感を感じる → いやになる

これは男性的な問題解決思考によるもの。

少し横道にそれて、一方で女性的な思考をしてみる。

重い話を聞く → 自分は似たような経験ではこんなことを思ったよという同情をする → 私はもっと大変なんだからという無意識の競争が起こる → 問題(物理的な問題というよりも心の上で)は解決されない

閑話休題。

「いいこと」をしようとすればするほど自分が消耗して、結果的には何も意味をなさなくなる。

だから、そうじゃない。
そうじゃなくて、まずは「いいこと」をしようなんていう思考を吹っ飛ばす必要がある。
問題を解決をするのは、心の上だろうが、物理的であろうが、その相手。
前に河合隼雄氏が心理療法家になりたいという人は、救おうとして結果的にダメにするというのを書いていたのを思い出す。

「いいこと」をしようなんていう思考を吹っ飛ばしたら、できることなんていうのはほとんどなくて、ただそばにいる、共感する、放置する(見守る)、逃げるぐらいしかないのではないか?

共感ということにフォーカスをすれば、ただ単にこんな風に考えているのかなぁと思いつつ言葉を返す。
本当は相手の言葉の中の閉じた世界の中だけで言葉を発すればいいのかもしれないけれども、それは時間がかかるかもしれないから、相手の発する言葉を含みつつ、もしかしてこう思っている?と少し自分の想像力を働かしてみる。

それが無意識的にできるようにならないかな。

超えてゆく

土曜日にとある人と飲んだ。

普通の人だったので(別に悪い意味ではなく)、果たして話が続くのかな?と内心どきどきだったけれども、話してみたらプライベートのことを普通に話せた。
相手も話しやすかったから、腹黒い自分を見せてしまったけれども話せてすっきりしたと言っていて、本当によかったと思う。
自分は酔っぱらった勢いで相当痛いことを言っていたような気がするが、まあいいかな。
佐藤という芋焼酎が本当においしかった。

そのときに指摘されたのは、「さっきから超えてゆく、超えてゆくといっているけれども、そんなに嫌だったら無理することはないんじゃない?」って。
そんなに自分が超えてゆくということを言っていたなんて気づきもしなかった。

その後色々と考えて、無理をしているわけではないと思った。
ただ自分は、いつの間にか少しずつこういう自分になりたい、こういう日々を送りたいと思うようになっていて、なんとかそれに向かっていけないかと思っているだけだった。
こういう自分になりたいということだから、別に無理をしている訳でもないし、ある意味楽しんでいる訳で、努力している訳でもない。

昔よりも少しだけ、他人との比較を良い意味で脱出しようとしているのが嬉しい。
問題をきちんと見ようとすると、深く追究せざるを得なくて、そのうちに比較から脱出できるのかもしれない。
毎日を過去の自分との微分で考える。
そんな風に過ごしたいと思います。

川田亜子さんが自殺した件について

なんだかよくわかりませんが、表題の川田亜子さんが自殺してしまった事件が頭にこびりついています。
川田亜子さんは昨日知ったばかりで、というわけで特にファンというわけでもないのですが。

彼女が最近blogに書いていた、生きる意味について聞いてしまったということが引っかかっているのかもしれません。
自分も人ごとではないし。

私は普遍的な生きる意味はないんじゃないかと。
それは残念ながら他の誰かが与えることはできないし、自分自身で見出していくしかなくて。
それは生まれたときに課せられた課題(なんか馬から落ちて落馬したみたいな表現だな)なのかな。

今まで漠然とこれが私の生きる意味と思っていたところで、それが崩れるようなことが起こってしまう。
そういうときにその課題に本気で向き合わないといけないわけで、非常に辛い。
色々な意味でそこで生死が決まって、乗り越えると遙かに成長する。
いわば改めて生まれ変わるための苦しみで、あちらの世界とこちらの世界の際々のところを行くことになるのだけれども、川田さんの場合はあちらに行ってしまわれた。

この生きる意味について他人が与えることができないけれども、一つだけできるとしたら、聞くこと。
でも、それもなかなか難しい。
下手に励ますこともできないし、そんなことどうだっていいんだって、もっと気楽に考えろとも言えない。

こういうときに周りに相談することはできなかったのか?という人はいるけれども、こういうのを言うことは簡単。
それ以前に、彼女は以前のblogでこういうことを問うてお母さんを泣かしてしまったと自分を責めている。
自分が好きな人を泣かしてしまったことで、彼女はこういうことを問うてはいけないのではないかと思ったのかもしれない。

まあ、勝手に推測するのはいけないわけで、しても仕方がないのだけれど、自分は相談される側になれるぐらい強くなれるだろうか?と思った。
どんなことを言われても受け入れられるか、客観的にいられるか。

積ん読になっているこれや

心理療法におけることばの使い方 ― つながりをつくるために
著者: Leston Havens
ページ数: 310ページ
出版社: 誠信書房
発売日: 2001年7月

以前読んだこれ

対話で心をケアするスペシャリスト《精神対話士》の 人の話を「聴く」技術
著者: メンタルケア協会
ページ数: 192ページ
出版社: 宝島社
発売日: 2006年9月20日

を読んだりして考えないとな。

死んじゃダメだというのは簡単なんだよなぁ。

日々雑感: 2008/05/12

1. iPhone用アプリケーション、Crêpe

Crêpeと名前をつけた(ただ単純にクレープが食べたかったから)iPhoneアプリがある程度できてきて、データベースを使っているので、もっともそのデータベースをどうやって構築しないといけないかということを考えている。

まだ参照カウンタについてよくわかっていない。Instrumentsで見てもメモリリークしまくりのようだ。

それはそれとして、このアプリはかなりニッチなものなので、もっと広く使えるようなおもしろいアプリを作りたいのだけれども、何を作ろうか。

2. 〜ですね、わかります。

「〜ですね、わかります。」っていう表現?があるけれども、どうしてあの表現に対してイラッとくるんでしょうかね?

「~ですね、わかります」のガイドライン

「こうですか?わかりません><」もそうだけれど、不思議ですね。

考えてから行動することと、行動してから考えること

宮本茂さん、『Wii Fit』などを語る。

あのね、ま、言いづらい話なんですけど、
世の中には「頭のいい人になりたい人」というのが
すごくたくさんいてね、多くの場合、
その人たちが迷惑をかけるんですよ。
なぜかというと、頭のいい人になりたい人たちは、
すごく頭のいいことを考えて、
みんながそれに従えば
世の中がよくなると思ってるんです。
で、法律や、決まりや、
マニュアルをたくさんつくる。
それに従えば幸せがやってくると思って。

(略)

そうすると、頭のいい人になりたい人たちは、
「どうして大衆ってバカなんだろう」って
もう、涙を流しながら思うんです。
「だから戦争が起こるんだ」とか言うんです。
でもね、彼らが言うようなことが、
世の中を変えたことは一度もないんですよ。
まあ、変える手伝いくらいにはなるにしても、
本当になにかを変えるようなものっていうのは、
「こっちのほうが美味しかったぞ」とか、
「つかってみたら便利で、もう戻れないや」とか、
そういう「事実が先に突っ走ったこと」ばかりで、
決まりやルールは、あとからできるんです。

自分は無駄に考えすぎてそれで諦めてしまうのかなぁと思います。たぶんそれは無理なんですよね。全く考えなしに始めるのがいいというわけではないけれども、考えてから始めたとしても、始めてから考えても、たぶん実際にやってみるとつまずく。だとしたら先に始めてしまった方がいいのではないかということ。

ただ、考えることは重要でないというわけではなくて、もちろん後でこれはどういうことだったのだろうか?ときちんと抽象化しておかないと次に続かない、その場限りのことになってしまうと思います。

できかけが大事なんだ。できかけが。

それにしても、任天堂はすごいですね。ほんと。任天堂がつっぱしている間はまだ日本も大丈夫、まだまだこういうことはできるんだって思って、勇気が出ます。

書評: とかげ

とかげ
著者: 吉本ばなな
ページ数: 179ページ
出版社: 新潮社
発売日: 1996年5月

 「デッドエンドの思い出」に続く(あくまで自分が読んだ中で)吉本ばななの2冊目。

書評: デッドエンドの思い出

 吉本ばななは本書の後書きで、この本のテーマの一つが「癒し」だと書いたのだが、実際に読んでみて確かに肩の荷がするすると降りていく感じはあった。

 この本は6編の変化の兆しの前に立った人々がもがき苦しみ、そして新しい道を見出そうとしていくというショートストーリーの集まりなのだけれども、どの話をとってもこれというところが抜き出せないような、すべてが絶妙につながっていてどれかを抜き出すとそのほかがこぼれ落ちてしまうような、自分にとっては漢方薬のような本だった。

 それでも一カ所を抜き出すとしたら、ここだと思う。

 自立とは、結婚とか独り暮らしとか、そういうことではないのだ。全然違う。結婚して家庭を出ていて子供がいても親の陰を背負っている人を大勢見た。それが悪いということはないけれど、とにかく自立ではないのだと思う。

 昭と出会ってからはじめてそのことを知った。それは、昭と新しい一対とか家族とかを作った、そういう甘ったるい話ではなくって、昭と出会ってはじめて私は自分がひとりだというさみしいことの本当の意味を知ったということだった。父でも母でも村でも、昭と暮らすこの部屋でもなく、私は私のことを考え、それをしているのはこの世で私だけだということ、ぽっかりと私はここにいて、何もかもを決めていて、ここにしかいない。

吉本ばなな 「とかげ」

 この後に「うまく言えない。」という文章が続くのだけれど、この言葉は作者の素直な感想なのではないかと感じた。実際、このとき、作者自身うまく書けなかったのではないかと。ただ、何となくその匂い感じつつ、その匂いに従って書いたところこの文章になったのかもしれない。

 まだ、自分自身もその匂いを感じてはいるけれども、まだそれをつかみ取るところまではとてもいっていない。

 漫画フルーツバスケットを書いた漫画家の高屋奈月は、その漫画の登場人物すべては自分であるということを書いていた。自分の色々な側面が登場人物になっていると。この小説でも勝手にそう感じた。どの登場人物も、吉本ばななその人ではないかと。

 目標まで残り177冊。