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「カールじいさんの空飛ぶ家」を観ました。

WALL-Eを観て、とても感激したのがもう1年近くも前になった(読み返してみましたが、なんだかずいぶんと稚拙な文章だなw)。
cocoa*life – 「WALL-E」を観ました

この映画はずっと以前からも生みたくてうずうずしていた。
はやる気持ちを抑え、初日の初回に観てきた。
WALL-Eを観たあのときも、とんでもない映画を観たなぁという思いがあったけれど、Pixarはそれを軽々と超えていったと思う。

10月の終わりから11月の始めにかけて、これを書いているわずかひと月前、今まで生きてきた中で最低最悪で絶望的なことが起こり(それについては、来年のこの時期が来たら書くかもしれない)とても悲しみ、傷ついたから、余計映画の内容ともシンクロしてしまった。

そのおかげか?途中で何度も何度も泣いた。
それでもこのことを差し引いても、とてもとてもすてきな映画だった。

冒頭の愛妻との愛情溢れる倖せな生活、そして死。
言葉がないからなのか、心にすっとその倖せ、喜び、悲しみがしみいってくる。

だからこそ、一見気むずかしそうに見えるカールじいさんが、どれだけの悲しみと後悔を携えて旅に出ようとしているのか観る人にはわかる。

この映画の根底を流れる物語は「手放し」なのかもしれないと自分には映った。
愛する妻にしてあげられなかった二人の夢を叶え、後悔を手放すための物語。
これから大切にしてゆく周りの人たちを救うため、今まで頑なに拘っていたものを手放す物語。
執着しすぎた故、ついに望みを叶えられなかった人の物語。

手放そうとするとき、人はいろいろな感情を感じ、今まで自分には何が大切だったのか、これからの自分には何が大切なのかということが見えてくる。

人間の儚さ、悲しさ。
その一方で、愛そうとするときの強さ、優しさ、勇気。
いろいろな感情をたった一つの映画で見せてくれた。

「レスラー」を観ました。

渋谷で「レスラー」という映画を観てきました。
シネマライズという映画館ですが、平日学生は1,000円なのがとてもいいですねw。

主人公はミッキー・ローク扮するレスラーのランディ。

いろいろなものを失い、一度はレスリングを離れる。
そこで新たな道を模索するけれども、さらに追い打ちをかけるように、彼の大切な人ことすべてを失ってしまう。
そのとき、彼はもう一度大好きなレスリングにコミットし直す。

山月記の主人公、李陵が言うように「人生は何事もなさぬにはあまりにも長いが、何事かをなすにはあまりにも短い。」のであって、彼にはレスリング、そこにしかもはや自分の道や居場所がないということを人生から思い知らされ、気づいたから。

すべてを失ったとき、本当に大切なものだけが残る。
Steve Jobsが2005年のStanford大学での卒業記念講演で

Remembering that I’ll be dead soon is the most important tool I’ve ever encountered to help me make the big choices in life.
Because almost everything — all external expectations, all pride, all fear of embarrassment or failure – these things just fall away in the face of death, leaving only what is truly important.

自分がもうすぐ死すべき存在だということを覚えておくことは、わたしが人生で大きな選択をしようとするときに最も重要なものとなった。
というのは、それがすべてだから。
すべての外的な期待、困難や失敗への恐怖、これらは死というものに面したとき、崩れ落ち、本当に大切なものだけが残るのだから。

と語ったことが思い出された。

そんな状態の自分を救えるのは、残念ながら自分だけしかいない。
それは残酷でもあれ、しかしながら自分自身で決めることもできるという希望の光にもなる。
そのことに気がついたとき、ランディも自分を救おうとし、自分の居場所を自分で作り出そうとする。

だからこそ、泣きながらでも走るしかなく、最後まで全力でコミットしぶつかろうとするのだ。

見終わってエンドロールが流れている間、ふと、今の自分に重ね合わせた。
後になってぐっと来た映画だった。

「怨み屋本舗 スペシャル II 〜 マインドコントロールの罠」を見ました

2年前にテレビ東京で連続ドラマとして放送されて、昨年の同時期にスペシャル、今年の7日にスペシャル第2弾が放送された「怨み屋本舗」を見ました。

正直、自分自身すっかりあるのを忘れていて、友人のhytoshiさんのブログ思い出して見ました。
なので最初の30分は見られませんでした(笑)。

感想ですが、彼も書いているとおり、非常によくできていたと思います。
あの神ドラマであったTRICKでさえ、II、IIIとなるごとに勢いが衰え、映画もイマイチになってしまって、なかなか続編というものは難しいのだなと思っていました。
怨み屋本舗自体も、前作のスペシャルドラマの内容はよかったと思いますが、どうもあの不自然なCGが作品全体のクオリティを落としていたような気がしました。

言う方は簡単なんですがね・・・。

今回は、最後の方が少し駆け足気味ではあったものの、以前のドラマ本編のようなクオリティだと感じ、よかったなぁと思いました。
やはり木下あゆ美の怨み屋を演技するときのあの妖艶な雰囲気と、一方、うり二つの少女、新城聖美を演じるときの(特にあの最後のビデオでの告白)の目の焦点が定まっていない、絶望感を表した雰囲気がとても良いなと感じました。
まさかこんなところでうまいこと過去の伏線を回収するとは思っていませんでしたが :-P

この夏またシリーズとして復活するようですので(今回の伏線回収はそれを意図してのことでしょう)、今回のレベルに期待を抱きつつ、楽しみに待ちたいと思うところです。

怨み屋本舗 スペシャル II マインドコントロールの罠
販売元: バップ
発売日: 2009年3月25日

Where the Hell is Matt? (2008)

このblogを始めた最初の頃に書いた、”Where the Hell is Matt?”の2008年版を観た。
cocoa*life » YouTube貼り付けのテストもかねて

YouTubeのHD版にもばっちり対応でとてもきれい。

ごらんになればどういうことかわかると思うのだけれど、Mattさんが世界中を旅して、変な踊りを一人で時にはみんなでする。
それを撮っただけのビデオ。 

それは良いとして、この映像を見ていて思ったのは「それでいいじゃん」ってこと。
観ればわかるとおり、みんな楽しそうに踊ってる。
それでいいじゃないと。

確かに色々と悩んだり、悲しんだり、嫌なことがあるかもしれないけれど、この踊りを観ていたらなんてちっぽけだなぁって思った。
楽しそうに踊ればいいじゃないと。

そして、まだまだ世界にはいろんな場所があって、いってみたくなって、いろんな人がいて、そんな人たちに少しでも役に立てたら、役に立ちたちたいと思う。
たった、ただ単純に世界各地で踊っただけのビデオなんだけれどね、不思議とそんな気持ちになった。

もう二つ改めて感じたことがあった。

一つは、世界がこんな風に楽しそうに踊れるようになって欲しいということ。
これを観ていると平和な気持ちになれるし、実際そうなのではないかと勘違いしてしまう。
きっと本当はそうではないよね?

もう一つは、やっぱりYouTubeの力はすごいなぁと。
インターネットがあるおかげで、世界各国でこんな風に楽しめる。
聞くところによると、2006年版がYouTubeで流行って、それでみんなMattと踊りたいとメールをして、それで2008年版が実現したんだとのこと。 
らばQ:メイドも踊る、子供もダンス、世界で踊るマット・ハーディング2008年版(動画)
これはとてつもないことだよなぁと、心が震える。

ちなみに流れている曲は動画の最後にも書かれていますが、Garry SchymanのPraanという曲。Garry Schyman - Praan - Single - Praan

追記
思い切りタイトルを間違えていましたw。

「WALL-E」を観ました

実は「ラースと、その彼女」の前に観ていたのですが、 書きそびれていました。
WALL・E/ウォーリー

とてもすばらしい映画でした。

無声映画と変わらないぐらい言葉が少ないのに、こんなにも感情が表せて、大事なことが表せて、さすがPixar、ジョン・ラセターだと思いました。

あらすじは、今から700年後の地球、人は皆ゴミの山のために宇宙へ飛び出していたのでした。
そんな中、一人でゴミを来る日も来る日もかたづけるロボット、WALL-Eがいました。
ゴミの中から見つけたお宝の中の一つ、ミュージカル「ハロー・ドーリ—!」のビデオを観て、誰かと手をつなぐことを夢見ていました。
そこへ謎のロボットEVEがやってきます。

WALL-EのEVEに対する愛情か、友情かわかりませんが、そのけなげさにいつしかEVEも同じような感情を抱くようになる。
たった小さなことが積み重なって、いつしか大切な気持ちになっていく。
それがとても丁寧に描かれていて、途中涙涙で、ラストは祈るような気持ちでした。

そしてきちんと人間の行く末を予期させるような展開も誰にでもわかりやすく描かれていたのが、さすがだと思いました。

そういえば、WALL-Eの充電完了、もしくは再起動の音がMacの起動音で笑えました。
とてもすばらしかったので、もう一度観たいです。

物語と癒し 〜 「ラースと、その彼女」を観ました

今年観た映画の中で(といっても両手で数えられる範囲だけれど)最もすばらしい作品でした。
12月20日(土)公開『ラースと、その彼女』公式サイト

正直これを観るまで、映画をあまり観たことがないので、映画という映像メディアでは小説や漫画で使えるモノローグによる心理描写ができないがために、心理描写というのは限界があるのではないか?と思っていました。
そんなことはないと、きちんと映像描写で心理描写ができるんだということを、教えてもらいました。

あらすじは、周囲に心を開かない青年の主人公ラースが、ある日兄夫婦にガールフレンドを紹介する。
そのガールフレンドのビアンカというのは、なんとインターネットで購入した等身大のラブドール
しかもラースはそれを生身の女性だと思って接している。

兄夫婦は面くらい、そこでうまく言って精神科のようなところに連れて行く訳です。
そして、そこで医者から言われたことは「ラースに付き合って、ビアンカが生身の女性だと思って接すること」。

最初は周りの人も面くらい、兄夫婦のお願いによってビアンカに接することにはしていますが、当然陰では蔑まれる訳です。
しかしながら、いつしか・・・というストーリー。

後半のクライマックスにかけての、そのいつしかのあたりのストーリー展開が非常にうまく、感激してしまいました。

映画の最初に医者が「ビアンカは意味があって現れた」と言うことを口にし、その現れた意味を医者がラースとともに探していきます。
つまりは、ビアンカが現れるという物語がどうしてラースによって描かれなければならなかったのか?

物語を描き、そして一緒に物語を共有していると、これがとてもおもしろいことに、心というものは勝手に治っていこうする。
ビアンカが発する言葉はラースの言葉であり、ビアンカによってラースは自分自身の心に直面し、客観的に観られるようになるから。

人が過去に心に受けた傷というものは、物語によって意味づけられ、直面させられることによって自身が癒されていく。
そういう物語の癒しの力というのを、改めてまざまざと見せつけられました。

ファンタジーではあるのだけれども、根底ではとてもあり得そうな、リアルファンタジーという触れ込みは全く持って嘘ではないのだと思います。
大事なのは個々の事例ではなく、その根底に流れる普遍的な物語であり、神話です。

あの出来事の解釈はどうしたらいいのかとか、心についてもっともっと学びたくなる、そんなストーリーでした。

NHKオンデマンドの感想

12月1日にNHKのVOD(Video On Demand)であるNHKオンデマンドが始まりました。

なんでPC向けは1.5 Mbpsと768 kbpsだけなんですかね!mp4で配信してよ。
なんでiTMSで販売しないんですかね。
なんでSilverlightじゃないんですかね。

という疑問はさておいて、せっかくなので見逃し番組に載った12月2日放送の「プロフェッショナル仕事の流儀」 を観てみました。
出演は武豊さんです。

ビットレートが足りなくてブロックノイズが結構発生しています。
番組を楽しめればいいという意味ではいいのかもしれませんが。

何のかんのいいつつも、この試みはとても楽しみにしています。

今回の番組の感想ですが、かなりよかった。
自分の成長だけを気にしている。
真摯に向き合ってる。

人間はなかなか向き合えません。
自分のダメなところ、足りないところに。
すごくエネルギーがいる。

それを支えるのは「もっとうまくなりたい、もっといい騎手になりたい」このシンプルな気持ち。
以前にもNHKで80歳ぐらいになってサーフィンをやられている方に、どうしてそんなに続けられるのか?と聞かれたときの答えもそれでした。

もっとうまくなりたいという気持ちが、そこから遊びをもたらしたり、継続になったり、それが成長をもたらすのでしょう。

モノローグと映画

何年か前に、自分はモノローグが大好きなんだということに気がついた。
とにかく心理描写がこってりしているのが好き。
フルーツバスケットのモノローグはものすごく好き。
登場人物の話す言葉と、その実際の心理との距離を丁寧に記していると思う。

以前、とある映画を見たときに期待しすぎたのか、なんなのか?すごく味気なく感じた。
それは今考えてみると、映像でモノローグを使うというのは大変に難しいからだろう。
映画でモノローグなんて使われたら、逆にしらけてしまう気がする。

ただ、一つ心配になるのは、モノローグを多用したものになれてしまうと、想像力がなくなってしまうのではないかということ。
たとえば、先の映画であればシーンから、心理を読み取れるかどうか?そういう感受性が自分の中に育つのだろうか?と。

マンガでは想像力が育たないという使い古された命題、それは本当だろうか。

「僕らのミライへ逆回転」を観ました

「僕らのミライへ逆回転」という映画を観ました。

舞台はVHSしか扱っていない小さなレンタルショップ。
ひょんなことから身体に磁気が帯びてしまったジェリーが店のテープの記録を全て消してしまいます。

困った店員のマイクとジェリーは、ビデオを借りに来たお客になんとリメイク版を作って渡してしまいます。
そのリメイク版(Sweded)は彼らが持っているカメラで作った即席版。
自分たちが出演者になり、はちゃめちゃなアイディアでゴーストバスターズやら、様々な映画のSweded版を作っていきます。

これがなんと思わぬことに大繁盛。
お客がわんさか押し寄せることになります。
が、、、ある日・・・。

どこのサイトでも語られていることですが、予算や機材がなくてもあっというようなアイディアによって物作りはなされる。
それをついつい忘れてしまう。予算がないから、機材がないから、はたまたアイディアがないから、etc。

折しも最近ちょいちょいナイトライダーを観ています。
2008年版と見比べても遙かにおもしろい。
オリジナルはまともなCGがない時代。
ターボブーストは実写でやるし、たまにミニチュアを作って撮影もしたりする(そしてそれに気がつくがw)。
でも、ドリームカーはかくあるべしみたいなヴィジョンを存分に感じることができる。
そこが違いなのか?

私は、この映画でみんなが映画を作る時、アイディアをみんなが出しながら目をきらきらさせていたのが忘れられない。
ああ、これが物作り、クリエイティビティーなんだよねと思い出した。

クリエイティビティは未来から逆になされる、すなわち、未来はかくあるべしということから逆回転的になされるとしたら、「僕らの未来へ逆回転」というタイトルも、もしかしたら乙なものなのかもしれない。

ミューズの晩餐 — 西村由紀江

もう数週間前でしたが、たまたま居間にいたときにやっていたテレビ番組が「ミューズの晩餐」。これは音楽家を招いて、彼(彼女)の人生を語ってもらう様な番組。今回のゲストはピアニストの西村由紀江という方。お名前も初めて聞いたのですが、とても有名な方らしい。

まずは、小さい頃の思い出の曲、トルコ行進曲。なぜ、思い出の曲か?と言うと、行進をしている部分を弾くのには指と指の間を1オクターブ開けなければなかった。けれども、小さい頃の彼女の手はそこまで大きくなかったのでどうしても物理的にそこの部分が弾けない。そこでどうしたか?考えて、考えて、1オクターブではなくてもっと狭い範囲にしてみたらどうか?と。実際に試してみると、行進のテンポが速く感じられるが十分聞ける。そこで、彼女は大切なことに気づく。意外と作曲というのは簡単な物なのかもしれないと。

この話を聴きながら、ああ人っていうのは、こうやって試行錯誤してうまくいった経験があるとその後楽しくなるんだろうなぁと、勝手に上達していくんだろうなと思った。そしてこの番組から目が離せなくなった。

彼女はテレビに映っていたときは、ころころとよく笑いそうな、穏やかな笑顔を浮かべたとても魅力的な女性に写ったのだけれども、小さい頃はあまりしゃべれない娘だったそうである。ピアノを始めたのも話さなくても音で伝えることができるからだそうだ。それがどうして克服できたのか?理由は演奏会か何かで、間違ったことを話してしまったときに、でも観客からは笑われて大丈夫だったということからだそうだ。そのとき、彼女はああ間違ってもいいんだということに気づく。

そして、最後は思い出の曲「手紙」。この曲を作曲するまでは様々な楽器と組み合わせて作曲をおこなっていたらしいが、(どういう下りか忘れてしまったのだけれど)ピアノだけでやってみようと思ったそう。色々模索して、最終的にsimplicityな方向に向かうというのはデザインの話を聴いているようで(もちろん作曲というのはデザインなのだけれども)とてもよかった。

最後にこれからも色々なことに挑戦してみたくて、毎日が楽しいと本当に楽しそうに話す彼女はとても輝いていた。この短い時間にどうやったら毎日を楽しんでいられるか?ということを少しだけでも教えてらったような気がする。