物語と癒し 〜 「ラースと、その彼女」を観ました

今年観た映画の中で(といっても両手で数えられる範囲だけれど)最もすばらしい作品でした。
12月20日(土)公開『ラースと、その彼女』公式サイト

正直これを観るまで、映画をあまり観たことがないので、映画という映像メディアでは小説や漫画で使えるモノローグによる心理描写ができないがために、心理描写というのは限界があるのではないか?と思っていました。
そんなことはないと、きちんと映像描写で心理描写ができるんだということを、教えてもらいました。

あらすじは、周囲に心を開かない青年の主人公ラースが、ある日兄夫婦にガールフレンドを紹介する。
そのガールフレンドのビアンカというのは、なんとインターネットで購入した等身大のラブドール
しかもラースはそれを生身の女性だと思って接している。

兄夫婦は面くらい、そこでうまく言って精神科のようなところに連れて行く訳です。
そして、そこで医者から言われたことは「ラースに付き合って、ビアンカが生身の女性だと思って接すること」。

最初は周りの人も面くらい、兄夫婦のお願いによってビアンカに接することにはしていますが、当然陰では蔑まれる訳です。
しかしながら、いつしか・・・というストーリー。

後半のクライマックスにかけての、そのいつしかのあたりのストーリー展開が非常にうまく、感激してしまいました。

映画の最初に医者が「ビアンカは意味があって現れた」と言うことを口にし、その現れた意味を医者がラースとともに探していきます。
つまりは、ビアンカが現れるという物語がどうしてラースによって描かれなければならなかったのか?

物語を描き、そして一緒に物語を共有していると、これがとてもおもしろいことに、心というものは勝手に治っていこうする。
ビアンカが発する言葉はラースの言葉であり、ビアンカによってラースは自分自身の心に直面し、客観的に観られるようになるから。

人が過去に心に受けた傷というものは、物語によって意味づけられ、直面させられることによって自身が癒されていく。
そういう物語の癒しの力というのを、改めてまざまざと見せつけられました。

ファンタジーではあるのだけれども、根底ではとてもあり得そうな、リアルファンタジーという触れ込みは全く持って嘘ではないのだと思います。
大事なのは個々の事例ではなく、その根底に流れる普遍的な物語であり、神話です。

あの出来事の解釈はどうしたらいいのかとか、心についてもっともっと学びたくなる、そんなストーリーでした。