人生のパスを変える

この数年ずっと色々なことを考えて(いや悩んで)いましたが、その一つは本当に自分がやりたいことはなんなのだろうか?ということでした。

何かを選択するというよりも、何を捨てるか?をようやく考え始めました。
やりたいこと、学びたいことはいくつかの柱があるのですが、問題はどんな人間には限られた時間がないということです。
これは非常に残念なことでもあり、時間が限られているからこそSteve Jobsが2005年にStanford大学の卒業記念式典で演説した中で言ったように、生命が生み出した最も重要なことでもあります。

この先何年、何日生きることができるのか?誰にもわかりません。
ある日突然、事故や病気に遭ってしまうかも知れませんし、ふとした瞬間自殺してしまうかも知れません。1
わかりません。

だとすると、一番心がワクワクしそうなことを選ぶしかなかったのです。

色々なものを捨て去るときだと思いました。
なんでだかわからないので、うまく書くことができませんが、村上春樹の「ねじ巻き鳥クロニクル」を読み返していたときに、ふと、自分を救わなければならないと思うに至りました。
色々なものにとりつかれている、ある種洗脳されている(どんな人も親や周囲の環境からの洗脳を受けていますよね)、心が死んでいる、自分自身を自分が救わなければならないと思ったのです。
自分の心が望む方向に、心がワクワクする方向に、自分のヴィジョンと合致する方向にだけ、その中で最も良いと考えられるパスに舵を取ってあげる必要に駆られたのです。

切実に、そうするしかないという気になったのです。

ただ、裏返すとこれは完全にもう自分でリスクを負うしかないということです。
しかしながら、攻撃こそ最大の防御であるという気がしています。
動き続けることで、きっと道は開けてくる。

ということでパスを変えることにしました。

  1. あくまでも可能性のお話しなのです。 []
  • 立派な決断だと思います。

    何を捨てたか存じませんが、その決定に責任を取れるのは自分以外にいないですから、これで退路を断ったと言っても過言ではないのかもしれないですね。

    自分は依然として、何も捨てることはできないです。

  • なんていうのでしょう?
    退路を断つというのに何か違和感があります。

    現状、退路を断ったとまでは言えませんね。
    もちろん自分も人間ですので、食べて行かなくてはいけないということを考えると、全部の退路を捨てることは不可能です。
    が、道を変えようとするときに、今あるものは捨てるという表現をするのが妥当なのかなと思いました。

    むやみに、退路を断ってしまうのは、リスクを考えていないということにもなりかねないような気がしました。

    すみません、うまく言葉になりません。