先ほど、iTunesで好きな曲を適当に再生していたら、Celtic WomanのYou Raise Me Upが出てきた。 この曲は、忘れもしない2006年のトリノオリンピックで荒川静香が金メダルを取ったときに、エクシビションで演技したときの曲。
Celtic Woman
アーティスト: Celtic Woman
レーベル: EMIミュージック・ジャパン
発売日: 2006年2月1日
このエキシビションはテレビで見たときに、なんてなんて美しいのだろうか?と思って、YouTubeでも何度も観た。 久しぶりにYouTubeで見たくなって(確かまともなDVD映像やBlu-ray映像は出ていなかったはず)、今のYouTubeはHDに対応しているので、HD映像がないだろうか?と探したら見つかった。
YouTube – Shizuka Arakawa “torino 2006 Olympics” LP (HD)
Turandotを見ながら、あまりにも美しくて、涙が出てきた。
YouTube – Shizuka Arakawa “torino 2006 Olympics” Exhibition (HD)
こういう映像を観ると、YouTubeにはこういった歴史的映像を残しておく義務があるのではないかという気もしないでもないが、その話は今回は置いておくことにする。
Long Programで解説者が「ショートプログラムの時の倍ぐらい、いいのびのスケートですね」といっているように、自分もすごくのびのびと演技をしているように見える。
そして、笑顔ですごく楽しそう。
これが「作品である」ということなのだろう。
このところ、毎日のようにSteve JobsのStanford大学での2005年の卒業記念講演を聴いている。
その中に、こんな一節が出てくる。
The only way to do great work is to love what you do.
この言葉に集約されるのかも知れない。
人間は人生の色々なところで愛を試される。
他者に対して、自分の行うことに対して、そして自分に対して。
その愛の程度によって、その「作品」のすばらしさが決まるのではないか。
それはなぜか?
たぶん手間を掛けることになるからだと思う。
Paul Grahamのエッセイ、「ハッカーと画家(Hackers and Painters)」にはこんな一節が出てくる。
- 「Hackers and Painters」より
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レオナルド・ダ・ヴィンチは違った。 彼にとって、絵のある部分にどれだけ手間をかけるかは、誰かがそこを見るかどうかには 関係なかったのだ。彼はマイケル・ジョーダンと同じだ。妥協しないんだ。
見えない細部は、それが組合わさると、見えるようになる。 妥協しないことはこの点で重要だ。 ジネヴラ・ベンチの肖像画の横を通りかかった人々は、 すぐにその絵に気を止める。絵のラベルを見てそれが レオナルド・ダ・ヴィンチによるものだと知るより前からだ。 全ての見えない細部が組合わさることにより、 まるでほとんど聞こえないかぼそい声が幾千も合わさって一つの旋律を歌っているかのように、 ある種圧倒される何かが創られる。
- Paul Graham 『Hackers and Painters』
これを読んでいると、なぜSteve JobsがMacintosh開発の際に、開発者たちに芸術家であれと言ったのかその理由がよくわかる。
彼は芸術家がどのように作品を作り上げ、それが世の中に大きなインパクトを残すのかを知っていたからではないか。
もう一度、荒川静香の今度はエキシビションに戻ってみよう。
ここで解説者は「丁寧さがいっぱいあって、(略)普通の選手は足を離した瞬間にパタンって足が落ちちゃうんですよね。その辺がきれいに、すっと降りてくる、(略)全く無駄な動きがないんですよね。」といっている。
こういう細かいところの積み重ねが、全体としてのすばらしい美しさに繋がる。
その「作品」を愛した度合いだけ、どうあったらいいのか?どうすべきなのか?ということを考えて、そして行動してみる。
この愛情の強さが、Steve JobsであればMacintosh、iPod、iPhoneを生み出した原動力になったのだと思う。
であるとすると、このようなことを考えているうちに、もう一度「愛とは何か?」という問題に戻りたくなる。