もういいかげんにやめなさい!

 最近あまりエントリを投稿していませんが、たまには。

「もういいかげんにやめなさい!」と、ツァラトゥストラは叫んだ。「その物の言いかた、その恰好、わたしは気色がわるくてたまらない!

 なぜあなたは、みずからも蛙や蟇になってしまうほど長いあいだ、泥沼のほとりに棲んでいたのか?
 今ではあなた自身の血管のなかにも、腐って泡だつ泥沼の血が流れているのではないのか?
 そのため、あなたはそんな蛙のような声をはりあげ、悪態ばかりつくのだ。
 なぜ、あなたは森の奥にはいらなかったのか? さもなければ大地を耕さなかったのか? 海には、緑なす島々がたくさんあるのではないか?
 わたしはあなたの軽蔑を軽蔑する。また、あなたが私に警告するくらいなら、—なぜ、あなたはあなた自身に警告しないのか?
 わたしの軽蔑、わたしの警告の鳥を、わたしは愛情のなかから飛びたたせたい。泥沼からは飛びたたせたくない!—
 人びとはあなたをわたしの猿と呼んでいる。口から泡をとばす狂人よ。しかしわたしはあなたのことを、わたしの泣き豚と呼ぶ、—不平がましく、ぶうぶう泣くことによって、あなたはせっかくのわたしの『愚神礼讃』をだいなしにしてしまう。
 いったいあなたに泣きごとを言わせた第一の原因は何だったのか? 誰ひとりあなたに十分に媚びてくれなかったということだ。—そのためあなたはこうした汚物のなかに坐り、それによって大げさに泣きたてる理由ができたというわけだ。
 —それによって、多くの復讐をとげる理由を手にいれたというわけだ! お体裁屋の狂人よ、つまり、あなたの口角の泡は、すべて復讐なのだ。わたしには見えすいている!
 しかし、あなたの気違いじみた言葉は、その言い分が正しいばあいでも、わたしに被害をおよぼす! またツァラトゥストラの言葉が限りなく正しいばあいであっても、あなたがその言葉を使えば、かならず—正しからぬ結果になる!」
 ツァラトゥストラはこう言った。かれは大都会を見つめ、溜息をつき、いつまでも黙っていたが、ついにこう言った。

 このわたしにかぶれた狂人ばかりではない。大都会そのものがわたしに嘔吐をもよおさせる。どこを見てもそれは改善できない。いや改悪もできない。
 わざわいなるかな、この大都会!—わたしはかかるものを焼きつくす火の柱が見たい!
 というのは、大いなる正午が到来するにさきだって、そうした火の柱が立たなければならないからだ。しかし、それにはその時があり、それ自身の運命がある!—
 だが狂人よ、別れぎわに、あなたにこの教えを残しておこう、「もはや愛することができないときは、—しずかに通りすぎることだ!」

 ツァラトゥストラはこう言って、狂人と大都会のかたわらを通りすぎて行った。

Friedrich Wilhelm Nietzsche『ツァラトゥストラはこう言った』通過より
 

 「ツァラトゥストラはこう言った」の中でも「重力の魔」の節に続いて、特に好きなところの一つです。ニーチェは限りなく人間を愛していた。だから、軽蔑や警告を愛情から発したかった。それが彼の言う大いなる軽蔑なのではないかと思います。復讐意志としての軽蔑はとても気色の悪いものだと最近感じます。

 また、「今ではあなた自身の血管のなかにも、腐って泡だつ泥沼の血が流れているのではないのか?」この部分に、心理学的な「投影」を見事に描いたものではないかとも自分には読み取れます。
「なぜ、あなたはあなた自身に警告しないのか?」自分自身の悪の部分を見ずに、それを周りに投影している。狂人に対し、ツァラトゥストラはきっぱりと言い切ります。

 さらに、「誰ひとりあなたに十分に媚びてくれなかったということだ」の部分には仏教的な「渇愛」も読み取れるのではないかと。十分に媚びてくれなかった理由として、復讐をおこなう。

 結局、愛することは大切なのかなぁと思いますが、愛を要求することは苦しいけれども、とても苦しいけれども、すべきことではない(とまで言い切ってしまっていいのか?という感じがしていますが)のではないかと、思っています。愛する愛さないは悲しいけれども、相手の自由であると。

 ニーチェは哲学とされていますが、自分自身は心理学として捉えています(この二つに十分な区別があるのかどうか怪しいところですが)。

 って、いつも同じようなこと言ってますね、自分w。まあ同じなんですけど。