名古屋の事件のこと

 普段、あまり事件に対して感想を抱くということはないのですが、この事件だけは違いました。名古屋で起きた殺人事件です。非常に苦しくなります。

 その苦しくなる理由をいろいろ巡らしてみていると、被害者はどういうような気持ちで殺されてしまったのかとかを想像して、その苦しさに(本当はできないけれども)同調してしまうからでしょうか?

 はたまた、たとえ加害者が死刑になったとしても被害者は戻ってこないという絶望があるからでしょうか?

 被害者の今までのそして、これからあるはずだった倖せな生活を想像してしまうからでしょうか?

 さらに、別の角度から生物にとって生・死とは何か?というある種哲学的な、でも生物学的に解き明かしたい謎のことを答えのないままさまよいます。死の点を超えてしまうと、決して生には戻ってこられない。そして、生の代替性。加害者が死んだとしても代替はできません。

 答えもなく、問題も明確になっていない状態で当たり前なのだけれども、不思議だとさまよう。

 怨み屋本舗の第4話を思い出しますね。あれもドラマなんだけれども、実際に本当にあり得そうでやりきれない絶望的な気分になりました。

 人を殺すことを肯定することはもちろんできないのですが、何らかのもめ事があってかっとなったというのはまだわかります。そういった場合に自分がやらないという保証を、本当にできる人はいないでしょう。

 では今回のような、そういった突発的な感情にまったくよらない事件を起こさせないためには、果たして何をすべきか。簡単ではないけれども、やはり以前書いた自己愛をはぐくむということが重要なのかなと思います。人を殺してはいけないという理由がないのだから、他人に殺されたくなければ、人を殺してはならないという論理を用いるしかないのかなと。そう感じています。