二念を継がない

 昨年末の忘年会の際に教授と話をしていて、興味深いことを聞いた。

 まだ、学生時代だった頃のことだそう。

 とある授業があって、その授業の最初は瞑想をする。瞑想の方法というのは二念を継がない。二念を継がないということはどういうことか?要は次のことを考えないということ。

 何かを考えだしてしまうと二念を継いでいるということになる。

 そのときは、へーそういう瞑想っていうのもあるんだと思ったぐらいなのだったけれども、自分の中にどうもひっかかってそのことをぼんやりと考えているときがあった。

 なぜ引っかかったのかといえば、もともと瞑想についてはかなり興味があったということと、クリシュナムルティは瞑想の方法について、常にしているものであるというのと、自分の心の動きを観察するものであると述べていて、それと若干違っているような気がしたから。

 でも、よくよく考えてみれば、同じことで、要として集中力をつけるということにあるのではないかと思った。

 心の動きを観察することも言ってみれば自分の心の動きだけを見つめていると言うことで、二念を継いでいないし、集中するということはどういうことかと言えば、他のことには気を配らずにそれだけをやるということなのであるから、二念を継いでいない。

 最近、イスラーム文化や仏教哲学の本を真面目に読んでいないので、忘れてしまったのだけれど、確かそれらでは人間の意識はいくつかの階層に分けられていて 1 、その下の方まで瞑想で降りていく。それは、結局集中しているということではないかと思った。

 人はある程度訓練すればきっとある程度のところまでいけると自分は信じている。だから、少し日々二念を継がないように生きてみようと思う。人間なので、いきなりというのは無理なのだけれども、それでも日々やっていこうとするということに意味があるだろうから。

 人生は複利計算。

 久しぶりに読みかけの東洋哲学の本、井筒俊彦さんの「意識と本質」を読みたくなった。

意識と本質 ― 精神的東洋を索めて
井筒 俊彦 著
ページ数: 417ページ
出版社: 岩波書店
出版日 1991年8月
  1. ユングでも同様だが、ユングと同様というわけではない []