考え続けること

 ここ2週間ばかりは、殆どプログラムを組んでいて、あまりものを考えるという作業をしていないなぁと感じる。

 今の自分がものを考えるという行為ができるようになったのか?まったくよくわからない。できていないといわれれば、そうであるような気もするしそうでない気もする。本当にものを考えられている人と比べたらということなのだろうか?友達によく考えているねと時々いわれるが、それを否定したくなる。

 ものを考えるという行為の一つには「批判的に捉える」ということがあるようだ。

 ただ、この「批判的」というのがなんだか知らないが自分の心の中で引っかかりを感じるのは否めない。自分は、批判 = 悪いことというようなマインドコントロールがされているのかもしれない。自分はあまり批判的に考えるという作業が出来ていないように思える。大体の場合はすでに出ているような結論があって頭の中でぐるぐるそれが巡り巡っている。そのさきを尋ねようとしない。それはただの思考停止のように思える。

 あとは考えることに疲れたのか?考えるというのはとてもエネルギーがいる作業で、やりたくないときはやりたくない。今はそんな気分でもある。

 それに関連して、最近はあまり本も読んでいない。どうもこのサイトの右横のコラムのNow Readingに載っけている本は、途中で止めてしまうというか、なかなか読み進めないなぁと感じる。止めてしまったほうがいいのかもしれない。

 読書は好きなのだけれど、読む気力が湧かないときはまったく湧かない。それはもしかしたら、本当の意味で読書が好きということではないのかもしれない。それは焦燥感?強迫観念?その恐怖から来ているのかもしれないこういった恐怖から来る作業というのは元来、長続きはしないものであろう。

 それでも、読書をしていて自分の知らない新しい世界をみせてもらうととても嬉しいし、鳥肌が立つくらい感動することもままある。そういうときは読書をしていてよかったと思うし、読書が好きだと思う。

 ここまで書いていて、やっぱり積ん読が無尽蔵に増えることで、自分の無駄な完璧主義が顔を出し始めているのかもしれないなぁとも思い出した。今の超えてゆくべき壁。その一つがこの無駄な完璧主義であろう。

 これに対するための答えの一つは、クリシュナムルティが「自由であるためにはどうしたらいいか?」と聞かれて、「自由であろうとしなさい」といったように「ある程度適当であろうとする」ということなのかもしれない。しかしながら、そのバランスはとても難しい。