「正しさ」と揺らぎ

[以前書いたエントリが全部書ききれなくて残っていたので、それを適当に書き換えながらアップロードすることにしました。]

 世の中にいる人の数だけ考え方があって、だから正しいことなんて無いのかどうかわからないけれど簡単に見つけることはできない。「正しいこと」というのはとても難しくて、ある種みんなが「正しい」と思いこんでいるから、「正しい」ことというのもいっぱいあるのでしょう。

 人の考え方を知って、ああこんな見方もあるのだなぁとそれを楽しむのは確かに良いのだけれど、じゃあ自分はどうしようか?と考えたときに少し困る。正直、正しいことのなさというのは自分の中ではかなり絶望感を生むような気がする。

 人を傷つけないなんていうことは無くて、ないのであれば、自分はできる限り傷つかないことを選ぼうとしたいとは思う(実践は今はまだなかなかできないけれど)。それは、自分を守るという意味ではなくて、傷つく傷つかないという概念から自由になることだと自分は思っている。

 人に対して傷ついた傷ついたと泣きわめくのは(だからといって傷つけて良いといっているわけではない)、人に対して自分をこういう風に扱え!という無意識の、なのでたちが悪い、非常に暴力的な行為だと感じる。その心は自分の中では他人というのは、たとえ家族や恋人であったとしても縛ることはできない、心は縛れないということはできないという(自分の)絶対的前提条件にある。

 人間の思考、ものの見方には限界がある以上、傷つけて良いというわけではないが、だとしたら、だからといって傷つけたといって簡単に責めて良いというわけではないとも思う。

 しかしながらそういうことを書くと、たとえば「悪いこと」をしたら責任を取らなくて良いのかという議論が出てくるのは必至で(これは見かけほど簡単ではない)、じゃあ、そこで「悪意」があるか無いかなんかの基準で判断してしまうと、悪意よりも恐ろしい「善意」だったらいいのかという問題になる。正直、この問題はうんざりしていて、でもある程度自分の中で答えを出さないといけないなぁと感じてもいるのだけれど、なかなかそう簡単に出るものでもない・・・。

 ただ、こういうことに傷つく人もいるんだということを知るのは重要。

 「2日で人生を変える『箱』の法則」を読んでから、「人としてみる」ということはどういうことかというのを意識し始めた。まだ自分の中で結論は出ていなくて、でも少なくとも「受け入れる」ということは重要な要因となるのではないかとは思う。人間であるから、怒っているときもあるし、弱いときもあるしということを受け入れる。それは自分を受け入れることができてから、より高いレベルとして他人に対してもできるのだと思うのだけれど。

 正直、一神教的な「善悪」は簡単で良いなとうらやんでしまう。これに乗っかってしまえばいいというお手軽さ。ああだから一神教が流行るのか。そう今書いていて思った。

 しかしながらもはや自分はパンドラの箱を開けてしまったんだ。