遊び方を見つけるということ

 先日の、「意志とか努力とか」のエントリでコメントをいただいたのですが、もう少し書こうと思います。

 コメントでも書いていますが、自分を怠惰なものだと割り切ってしまって、どうやって長続きをさせるかに注力する必要があり、それはなんでも良いと。そういったなかで、遊び化してしまうとそれは遊びであるから、努力ではなくなり、勝手にやるでしょうと言うことがポイントです。

 ふと、ヴィクトール・E・フランクルの言葉がつながりました。彼はアウシュビッツの強制収容所での生活の様子を記録した名著「夜と霧」で次のようにいっています。

ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。哲学用語を使えば、コペルニクス的転換が必要なのであり、もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。

ヴィクトール・E・フランクル 『夜と霧 新版』 1
夜と霧 新版
著者: ヴィクトール・E・フランクル
ページ数: 169ページ
出版社: みすず書房
発売日: 2002年11月6日
夜と霧
著者: ヴィクトール・E・フランクル
ページ数: 208ページ
出版社: みすず書房
発売日: 1985年1月

 同じことだと。どうも人は勉強や仕事やその他諸々に「楽しましてもらうこと」を期待してしまうような気がします。でも、そうじゃなくて、楽しましてもらうのではなく、コペルニクス的転換をしてどうやって楽しむか?という問いの前に立っていることを思い知るべきなのかもしれません。

 であるから、どう楽しむかを工夫する。そこに一番注力をすべきではないのかという問題にすり替わります 2

  1. 新版は原著の改訂版を使っているのと、訳者が違う、強制収容所での日常の写真が削除されているなどの違いがあるようです。私が持っているのは、新版なので新版から抜き出してきました。 []
  2. 一番かどうかは定かではありませんが、注力すべき問題には変わりないのかと思います []