書評: 旅人 – 湯川秀樹自伝

 最近は自伝を読むのが好きである。理由は元気をもらうため。

 今回はノーベル物理学賞を獲った湯川秀樹博士の中間子論を思いつくぐらいまでの自伝である。

旅人 – ある物理学者の回想
著者: 湯川秀樹
ページ数: 241ページ
出版社: 角川書店
発売日: 1960年1月

 元気をもらうためと書いたが、やっぱりこういうすばらしい業績を上げた人は幼い頃から神童であるというのがあからさまに見えるので、打ち砕かれそうになるのもまた事実である。

 それはいいとして、旧制三高 → 京都帝国大学という流れを持った人はやはりすさまじい教養を持っているのだなぁと感じた。そして今の時代とは違って、大学を出るということがいかに名誉なことだったのかということが透けて見えた。モチベーションの違い。それは半端がない。

 この時代でも文科、理科という区別はあったのであるが、湯川秀樹も福井謙一も全く関係なくそれらを学んでいるのである。そして語学にも堪能というほどではないが、文章を読むことぐらいは可能であったようだ。同じ中学生の時、彼らはしっかりと教養も学び、今では高校で習うようなことも学んでいる。あまりの違いに愕然とする。

 しかしながら、愕然としていても仕方がない。今からできるようになるしかない。彼らはわたしのロールモデルである。

 茂木健一郎は、自身の日記「クオリア日記」で尖る方向へのピア・プレッシャーの必要性を述べている。

ピア・プレッシャーには二種類ある。
一つは、「平均値に引きずり下ろそう」という
ベクトル。
「わかりやすさ」を追求する日本の
メディアの状況は、まさにそれだ。

もう一つは、どんどん尖る方向に
煽るようなピア・プレッシャー。
「お前、ドゥールーズ何冊読んだ?」
「三冊だよ。」
「そうか。まさか、日本語で読んでいるんじゃ
ないだろうな」
といった、鋭利さを加速させるような
圧力の作用。

日本はいつの間にか前者のピア・プレッシャーの
国になってしまった。
しかし、「わかりやすさ」を標榜して
幻の平均値を設定するのは一種の「談合」
である。

尖るというのは「偏差値」のような単一の
ものさしによるモノカルチャーではない。

みんなそれぞれ尖る方向は違う。
みんな違ってみんないい。
そのトンガリを、
談合でつぶすな。引きずり戻すな。

以上のようなことを申し上げた後、
「これからは、インテリの逆襲の時代ですよ」
と言ったら、会場から拍手が起きた。

講演中に拍手をもらったのは
はじめてである。

まぼろしの「普通」なんて知ったことか。
みんな、それぞれ信じる、愛する
方向にとんがろうぜ。

 昨年から少しずつこのピア・プレッシャーの必要性を感じて、でも周りにはあまりいないので自分自身にかけていこうと感じている。ピア・プレッシャーではなくセルフ・プレッシャー(もちろんピアの方がいいのであるが・・・)。

 智は青天井である。自分は自伝を読んで改めてそう感じるのである。もっともっと尖る方向にいきたい。