超えてゆく 3

デキルヤツノ条件 15:非情のコメントブレイカー(前編)

この連載はいつも大変におもしろいし、今回も非常におもしろかった。

バブル世代を羨む前に、自分でバブルを起こすくらいの気概はないのか。氷河期を乗り越えるだけで気力のほとんどを使い果たしてしまったのか。それとも、自分をもう“負け組”に置いてしまったのか。

そんなはずはない。そんなことがあっていいはずがないのだ。閉塞感にやりきれなくなっても、挫折感に打ちのめされそうになっても、あきらめさえしなければ必ず光は差し込んでくる。その方向を見誤ることなく、まっしぐらに突き進めば、今度はきみが羨まれるような存在になる。氷河期というつらい時期を乗り切ったのであれば、今度はもっと大きな山だって乗り越えられる。どうしてそういう方向に考えをもっていけないのだ。

デキるやつは放っておいてもデキるようになる。何故なら、不満を口にするより先に考え、行動を起こしているからだ。バブル世代に責任を転嫁するより、自分に価値を見出したほうが前向きだということに気づいているからだ。だから努力をする。歯を食いしばる。

それでも努力をしないやつは、努力をしたやつを羨み、自分より前を行くやつを妬み、時代を恨む。それは、人に期待される人生を選ぶか、人に期待されない人生を選ぶかのどちらかなのだ。

数年前に心理学の本を読み始めて、なんて厳しいのだろうかと思った。
たとえば「被害者になっている間は前には進めないが、被害者になっている間は自分が変わらなくてすむ」とか。

上記のエントリで被害妄想のエントリが出てきて、そのようなことをいっている間は成長できないというように筆者は返していると思うのだけれども、まさに上記の被害者になっている間には進めないということと同じ。

結局「できる」人間というのは、ついでに人間的な成長をすごい勢いでしている人なのかもしれないなと思った。
被害者にならないということは、誰のせいにもしないということで、それは誰のせいにもできないということであって、自分が全部責任を負うということである。
それはとてつもなく苦しいこと。
それでも歯を食いしばって前に進むことで、きっとかつての自分を超えてゆける。

自分は努力というものはできないけれど、向上心だけがあるのはまだ取り柄だと思っている。
弱いダメダメな自分を超えてゆきたい。
倖せな生活の夢やファンタジーではなくてヴィジョンを描いて、そこに向かっていきたい。
それがどんな道を選ぼうとも、解なんだと思っている。