前から気になっていた本の書評が出ていた。
白黒つけたら、あなた考えないでしょ?〜『ニーチェ──ツァラトゥストラの謎』
ツァラトゥストラはとても大好きな本で、でも上巻はそのときはわからなかったのか、あまりおもしろいとは思わなかった。
下巻は大好きで、特に「重力の魔」の節がとてつもなく好き。
そんなことは置いておいて、このレビューのここがおもしろかった。
しかし、なぜニーチェはそんな書き方をするのか。それは、「こう読めば正解」といった白黒をはっきりさせる読解が、わかりやすさと引き換えにそれ以上の思考を停止させる罠を孕むことを熟知・痛感していたからだろう。
むしろニーチェは、彼の作品を読もうとする人に、書き手の思考の痕跡をただ惰性的にたどる代わりに、読みながらそこここで躓き、自分の頭で考えること、生きることを迫っている。そのため読者は〈安易な解決に甘んじない忍耐と、宙吊りにされ、結論がなかなか見えない不安定な状態を受け入れるだけの読解の闊達さが、ここに要求される〉(p.119-120)のである。
ここを読んだときに、自分の頭の中ではV.E.フランクルの「夜と霧」にリンクした。
もう一度引用すると長くなるので、リンクだけにとどめておく。
「心で解る」までの時間
すなわち、我々は日々、生きることに対して問いかけられる存在だということ。
生きることに対して、こうであろうと悟ったとしても、色々な事象を通して、生きることは果たしてそれは本当なのか?と問いかけてくる。
そんなようなことを日々に対して、少しだけ感じる。
そして悲しいこと、辛いことが起きたとき、日常を遙かに超えて考えることを迫られる。
今までのあなたの思想、哲学は果たしてこれで良いのか?と。
もっと成長できはしないのか?と。
果たしてそういうときだけで良いのだろうか?
そうだとは決して思えない。
先ほど書いた秋葉原の事件のことに関連して、日々問われている存在だということを、こころで、こころから存分に解ることはできないだろうか?