「心で解る」までの時間

 以前書いていたけれども、書きかけで放置していたものをようやく書けるようになった気がするので書きます。

 先日、「絶望して諦めたこと」というタイトルで書いた「他人を制御しようとすることを諦める」エントリのことなのだけれども、そのエントリの最初の部分に書いたのは「思考の上では」ということだった。

絶望して諦めたこと

 というのは、まだまだとても実践できている状態ではないから。

 やっぱり、人に対して腹が立つことがあったりあからさまに不機嫌な状態を表現して、他人を制御しようとすることもある訳で。

 思考の上で納得するのと、心が納得する、解るまでにはだいぶタイムラグがあるような気がする。自分は心で納得できたとき、わかったとき、初めて実践が少しずつできていくような感触を持っている。

 では、実際に心で解るということはどういうことなのか?

 それは「ピンと来る」という感覚と同じなのではないか。このピンと来る感覚、「数学を感動する頭をつくる」という本で非常に良い説明がされている(この本は数学のみならず、一般的に学習したという状況は頭がどのような状態になっていなければならないかということを一般化してあるので抽象的であるけれども、非常に明確に説明していると思われる良書だと思う)。

わかるとは、自分が抱いている世界の中に、きちんと(ピンと)未知事項を位置づける能力のことなのである。

数学に感動する頭をつくる
著者: 栗田哲也
ページ数: 253ページ
出版社: ディスカヴァー・トゥエンティワン
発売日: 2004年6月30日

 自分の頭の中に、考えていることがすっと収まる場所が見つかる。それが心で解った状態なのではないかと今は考えている。

 だとしたら、頭の片隅に置くこと、もしくは考え続けること、さらに意識的に実践していくことが心で解るためには非常に大切な、むしろ必須事項であると考えている。

 なぜなら心で解るということがたいていの場合に訪れるのは、自分にとって何か重大な出来事が起こったときや、ずっと考え続けていて、あるときああそういうことかと「ピンと来る」とき、もしくは意識的に実践しているうちにこれはもしかしてこういうこと?と「ピンと来る」ときだから。それらが起こるためには、日々頭の片隅に無ければ気がつかないのではないか?

 と、だいたいここまで書いていてなぜか放置してあった。読み返してみると、ここから解るとはなんなのか?ということを書こうとしていたようなのだけれど、解るとは、上に書いてあるように思える。もしかしたらほかのことを書こうとしていたのかもしれないけれども。

 なぜ、続きを書こうと思ったのか?それは昨日少しこの心で解るという瞬間が訪れたからである。

 とある人間関係のことを考えていたというか、自分自身の感情と行動を思い出していた。そのときの感情は、寂しさから他人を攻撃することを自己正当化していたということであった。

 そのとき、以前紹介したヴィクトール.E.フランクルの「夜と霧」でフランクルが一番言いたかったことが突如として降ってきて、心にすとんと落ちてきたのであった。

それはなにも強制収容所にはかぎらない。人間はどこにいても運命と対峙させられ、ただもう苦しいという状況から精神的になにかをなしとげるかどうか、という決断を迫られるのだ。

「強制収容所ではたいていの人が、今に見ていろ、わたしの真価を発揮できるときがくると信じていた」

 けれども現実には、人間の真価は収容所生活でこそ発揮されたのだ。おびただしい被収容者のように無気力にその日その日をやり過ごしたか、あるいは、ごく少数の人びとのように内面的な勝利をかちえたか、ということに。

ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。哲学用語を使えば、コペルニクス的転換が必要なのであり、もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。考えこんだり言辞を弄(ろう)することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることに他ならない。

夜と霧 新版
著者: ヴィクトール・E・フランクル
ページ数: 169ページ
出版社: みすず書房
発売日: 2002年11月6日

 具体的に抜き出すとすれば、このような部分であろうか。この内容が頭に降ってきた。そして、臨床心理学を学んで、他の人よりは自分というものを理解できている、客観的に判定ができているのであるけれども、それを行動に活かしていないという現実をまざまざと見せつけられたのであった。

 そして、この文章の、この真理というものが心で少し解ったのであった。自分自身も刻々と問いに対する答えを求められていたのだと。

 心で解るまでの時間は普通は長くかかるのであるが、解るのは一瞬である。

 ただ、解るためにはやはり日常生活に対して「気づく目」を持っていなければならないと改めて思ったのであった。真理は至る所に転がっているが、往々にして通り過ぎてしまうのである。