自己愛について書きましたが・・・
先日、自己愛についてのエントリを書きました。そこで、自己愛についての重要性について自分なりに今思っていることを記してみました。しかしながら、自己愛があまりない人にとって、自己愛を高めるというか、自己存在の肯定感を高めることを自ずからやろうとするのはなかなか困難なことだと思います。
独りでやろうとするのはなかなか難しいから
その先日のエントリの最後に、自分が伝えるべきだと考えていることとして
あなたは存在するだけでいいだよ、すばらしいんだよということをですね。
Cocoa*Life 『自己愛の重要性』
と書きました。誰かに存在を肯定してもらえるというのはとても嬉しいことなのではないか?と思います。
繰り返しになってしまいますが、そもそも自己存在の肯定があまりできていないのだから、自ずから肯定をするのはなかなか難しい。だから、最初は他の誰かに肯定してもらう。人は、それを母親であったり、恋人であったり、そのほかの人にしてほしいわけです。
ただ、自分は自己存在の肯定を高めてあげることと、ほめることとは何か微妙に違う気がします 1 。ほめることというのは 2、その無条件的な肯定ではなく、条件的な肯定の気がするのです。自己愛が低い人に真っ向からほめると、逆に自分はそんなにほめられる存在ではないと思う場合があったりして。ですから、まずは無条件的な肯定をするということが非常に大切なのではないかと思います。
恐怖に立ち向かうということ
当たり前の話ですが、人間は恐怖をおそれます。では、「強い」ということというのはどういうことでしょうか?その解釈の一つに、失敗をおそれずに現実に立ち向かっていくということがあるのであれば、失敗をおそれないということが重要になります。
そのためには・・・
ということが必要なのではないでしょうか。
なので、失敗をおそれないということの鍵には、自己存在の肯定が大きく関与すると思わずにはいられません。ですから、このタイトルにある「人は逃げ込める存在があって初めて、強くなれるのかもしれない」と思うわけです。
最後に・・・
フルーツバスケットでこんな記述があります。
側に 近くにいて
俺の
こんな俺の言葉をきいてくれた呆れるでも
叱るでもなく何度も
何度も・・・何度も
受け止めてくれた・・・(略)
だから
嬉しかった・・・他人の弱音を嫌な顔ひとつしないでじっと
きいてくれたこと受け止めてくれたこと
弱い人間も存在るんだってことを
否定しないでくれたこと・・・嬉しかったんだ
安心 したんだ・・・高屋奈月『フルーツバスケット』 第85, 86話
ここまで読んでいただければ、この言葉を発した由希の心理を、きっと追うことができるのではないかと思います。