自己愛の重要性

 もっとこっちに思うことを書かないとダメだな。今の自分の時点での考えの表明ですから、間違っていることが多々あると思います。が、温かく見守ってください。

 最近重要だと思うことのひとつに、「自己愛」という概念があります 1 。概念がありますって言ったって、そんなに小難しく概念って書くべきことでもないような気がしますが、まあ、「自己愛」です。もうちょっと言うと、「自己存在の肯定」とでもいうのでしょうか?それとともに、しつけということの難しさということについても考えています。

 なぜ、自己愛が大切だと考えるのか?ということについて、現時点での考えを書いておくと、

  • 本質的な自己愛がなければ、本質的な他者愛はない。
  • 自己愛が欠けると、歪んだ自己顕示欲などが出てくる。
  • 「道徳」というものがまかり通らなくなるという恐れがある。

ということによります。

 1番目の、なぜ本質的な自己愛がなければ、本質的な他者愛がないのか?ということについてはいずれ書こうと思いますが、ここではおいておくことにしましょう。ただ、それに関連して大切だと思っていることは、自分を倖せにできるのは唯一自分しかいないということです。

 2番目の自己愛が欠けると、歪んだ自己顕示欲などが出てくる、ということについては、満たされない自己愛を他者愛で満たそうとしますから、他者愛を必要以上に必要として、いわばクレクレ厨になってしまうということです。

 3番目の「道徳」というものがまかり通らなくなると言うことについては、これまた勉強中でまだちゃんとしたことは書けませんが、現時点での考え(というか受け売りか)を書いておきますと、たとえば「なぜ人を殺してはならないのか?」という質問があります。その答えを、もしも道徳的に答えるとすれば、「自分が殺されると嫌だったら、他人を殺してはいけない」というように答えるかもしれません。(ここに道徳の嘘があるようなのですが、それは置いておいて)でも、もしここできちんとした自己愛が形成されていなければ、「自分は死んでもかまわないから、人を殺してもかまわない」というような反論をされてしまいます。これでは、道徳が成り立たないわけです。

 ですから、公共の福祉という世界観を成し遂げるには 2 、何をするにもまず「自己愛の確立」=「自己存在の肯定」=「生の肯定」をなさなければならないのです。これは、ニーチェの「道徳の系譜」あたりに書いてあることでしょうか?これについての議論は、永井 均著「これがニーチェだ」あたりを参照していただければいいと思います。一番最初に書いてあります。

これがニーチェだ
永井 均 著
ページ数: 221ページ
出版社: 講談社
発売日: 1998年5月

 まあ、そんな自己愛ですが、実はきちんと形成するのはなかなか難しいのではないかと考えます。それが、先ほど書きましたように「しつけ」と関連してくると考えているわけです。

 子どもが生まれたとき、まあ最初は赤ちゃんですから、当たり前ですから何もできません。そのために、言うまでもなく親は付きっきりで世話をします。このときは、子どもは親の「無償の愛」というものを感じているわけです。つまり、自分が存在するだけで愛されているということですね。これが「自己存在の肯定」につながるわけです。そして、それからある時点で、たとえばトイレトレーニングとか、その他いろいろなことで、いわゆる「しつけ」ということが始まっていきます。

 そうなってくると状況が少しずつ変わります。たとえば、トイレがちゃんとできて偉いとほめられ、逆にできないと怒られる場合もあるかもしれません。そうすると、子どもの無意識では何を感じ始めるのか?「無償の愛」というところから今度は「条件付きの愛」というものに変わるわけです。〜ができれば自分は愛される。しかしできなければ愛されないというような。

 当然ながら子どもは親の扶養が必要となるので、必死になります。だんだんと親に愛されるような自分になるように変わろうとするわけです。本来はそこで必要となるのは、そういったしつけとともに「自己存在の肯定」つまり子どもの存在の肯定をしてあげることなのですが、これがなかなかにして難しかったりする。子ども成長を心配するあまりついしかりすぎてしまったり。子どもは(というよりも人間皆そうですよね)その怒りの感情(怒りという感情は一番上の段階のもので、その下には必ず他の感情が隠されているそうです)という下に心配という感情があることに気づきませんから、怒られたということで、今までの親による無償の愛というものがなくなって自己愛が傷つけられる。

 そういうふうにしていくと、傷つけられないように、何でも自分でできるようになるために、自立をしていくわけです。ヴィジョン心理学では人の成長を「依存」→「自立」→「相互依存」というように(本当は後ろにもういっこあるようですが)段階的にして考えていますが、まさにその依存から「傷つくことで」自立が成し遂げられるわけです。

 特に日本では、「謙遜」ということを教えられたり、出る杭は打たれるという風土があるようなので、この自己愛の否定はかなり大きいのではないかと思っています。

 社会生活をしていく上では、他者との関わりにおいて、「しつけ」というのは大変に重要だと思います。これがないと当たり前ですが、社会は成り立ちませんからね。でも、そのしつけにおいて、自己愛を傷つけるということだけではなく、自己愛を形成するということを考えるということもとても重要なのではないか、もっともっと大切に考えてもいいのではないか?と思うのです。

 そう、あなたは存在するだけでいいだよ、すばらしいんだよということをですね。それが人が一番ほしい言葉のひとつなのではないかと最近はそう思うのです。

  1. 自己愛については、ハインツ・コフートによる自己心理学が有名なようですが、未読です。 []
  2. 何か違うか??? []