書評: ねじまき鳥クロニクル 第2部 予言する鳥編

ねじまき鳥クロニクル 第2部 予言する鳥編
著者: 村上春樹
ページ数: 361ページ
出版社: 新潮社
発売日: 1997年9月

 この後に書評(といえるものであろうか?)を書くのだが、第3部も一緒に8時間くらいで読んだ。途中精神的に重くてしんどかったのだけれど、とにかく読み通した。

 小説はあらすじを書く気にはならないので、どう書こうか難しいところである。

 第2部で出てくる「クミコの手紙」は自分にとって衝撃的だった。クミコが手紙の中で書いているような、自分であって自分でないような感覚(とわたしは読んだのだが・・・)を今まで自分は考えようとしつつ、避けようとしていたのではないかと思ったからだった。

 この小説の中で、意思ではなく何か大きな「運命」のようなものに翻弄されていく人々が描かれるが、過去の西洋哲学も含めて、人間は自分の意思を過信しすぎているのかもしれない。

 少し前までは、自分と向き合うということを、対決するというか闘うというか、敵としてしか見なさなかったように思う。果たしてそれでいいのか?それが最近の疑問であって、自分が対決しようとしていたのは意志などという表層のものではなくて、無意識なる自分なのではないかと思えてきている。

 自分が、自分自身と対決し、自分の思考を意思が望む方向に変えることは通常の方法で果たして可能なことなのか?闘おうとすればするほど、自分自身が消耗するような、力が抜けていく感覚。以前書いた、心で解るというのは無意識で解るということを意味するのだろう。それは意思の力でこういう方向にしろ!ということからではなしえないのかもしれないと漠然と思えるようになってきた。

 そして、果たしてたとえば裏切りというようなもののは存在するのだろうか?この小説を読んでわからなくなった。完全にないとはわたしにも思えない。客観的に見てならば存在するように思える。しかし主観的にはどうなのか?クミコがしたことは客観的には裏切りなのかもしれないが、彼女は大きな流れに逆らうことができなかったというようなことである。

 意思の力を過信しすぎて、道徳 = 正義 = 「正しさ」を作り上げ、それから少しでも外れる人間を奇異として徹底的にたたく。わたしにはそれが人間心理というものの理にかなったものであるとは何となく思えない。たとえば思いやりという言葉で包んでしまえば、すべて「正しく」なってしまうような状況はとても危険なように感じる。

 流れを元に戻す。では、自分と闘わずしてどうしたらいいのか?流れに身を任すということしかないのか?自分を受け入れるのか?(これはそう簡単にできるものではない)それは今のわたしにはよく分からない。

 目標まで残り196冊。