習慣による身体性と無意識

(なぜかアップロードしていなかったので、アップロードします)

 先日、プロフェッショナル仕事の流儀のイチロースペシャルを観た。だいたいのことは先日紹介した「キャッチボール ICHIRO meets you」という本で知っていたのだけれど、改めてイチローの頭の良さを観たと思う。

キャッチボール ICHIRO meets you

 やはり気になったのは、イチローの持つ身体性と無意識との繋がりの部分。イチローは小学生の時に、毎日欠かさず(本当に欠かさず)バッティングセンターに行き、バットを振りまくっていた。そしてボールを打ち返すことに非常なる喜びを得ていた。きっとそれによって「型」ができたのだと思う。

 そして今も「型」にこだわる。球場に着いてからの練習メニューはいつも同じ。お昼ご飯はいつも同じカレー。そしてもちろん、あのバッターボックスに立つときのぐるっとバットを1回転するときの挙動。

 習慣がもたらす「型」。無意識というのはある種の自動処理のようなものだと思っているので、無意識を利用するためには「型」を作るというのはその実、道理にかなったものなのかもしれない。

 いつも引用するかもしれないが、やっぱり「型」といえばこの文章である。

 英語の力をつける上で、恐らく諸君が真っ先に取り書かねばならないのは、英文法の知識を手に入れる事であろう。何故なら、大学入試レヴェルの英語になると、最早外国人である我々のあいまいな感覚に頼った読み方では、正確に読めないからである。 また大学入試ではそうした読みにくいところを狙って問題とするからである。

 そこで諸君は英文法の知識を武器として、英文を論理的に読み解こうとする。この武器は強力である。この武器を意識的に使うならば、我々は英米人以上に正確に英文が読めるようになるのである。すなわち外国人である我々は、そのハンディキャップをプラスに転じる事が出切るのである。この武器を与えてくれるのが、英文法の授業や参考書である。

 しかし、その手に入れた武器を実際の英文に当ってどう使いこなすのか解らないと武器も効果を発揮しない。そこでこれ等の武器の有効な使い方を教えるのが英語構文の授業である。これにより諸君は「辞書と時間さえあれば」現代英文は殆ど読めるようになる。だが、残念な事に試験においてはその辞書と時間がないのである。どうしたらよいか?

 単語熟語は憶えるほかない。それには、教科書の音読復習と熟語集をやることが必須である。

 時間不足はどうしたらよいか?これについては新しい構文に出会う度にそれを理解し、理解したあとは必ず繰り返し音読して、つぎに同種の構文に出会った時には、 もう考えなくてもスラスラ読めるようにしておかなくてはならない。構文理解が「意識化」だとすれば、これはその後に来る「無意識化」の作業である。これが行われず「理解」に留まるならばすべての文章を意識化して読む為、時間は恐ろしく不足する。

 「分かった」だけでは駄目なのだ。その理解と知識を自分の体の一部のようにしてしまわなくてはならない。

 剣の修行において修行者は初めは剣の捌き方、体の捌き方を細部に至るまで意識化する。しかしその後は繰り返しの練習によりそれを無意識化し、遂には剣も意識されなくなり、己が体の一部と化し、相手の動きに応じて体と剣は自然にもっとも有効な動きをするようになる。こうでなくては勝は得られない。英語の上達とて同じなのである。

 さて、かくて教科書の復習を諸君は行うことになるが、それで充分だろうか?それで入試に出る文型は尽くした事になるだろうか?否と言わざるを得ない。教科書はもともと網羅主義では作ってないからである。だからどうしてもここで網羅する事を最初から狙ったものが必要となる。それが「基本英文700選」なのである。これをやりぬいた人は「これでもう入試で分からない文型はない」と自信を持って言える。

 しかも英文に対するセンスが良くなる。なんと素晴らしいことであろうか。おまけに英作文が大変楽になる。英作文は自分の知っている単語を自分の(貧しい)英文法の力でつなぐ事では決してない。そんな事をすれば、数限りない間違いを避けられないであろう。作文は、モデルとなる文章が頭の中にあって、それを書く場合も同じで、諸君は頭の中にある新聞、雑誌、小説などの豊富な文例をその材料として使っているのだ。英語において、そうした材料を重複なく最小限度で集めたものが「基本英文700選」なのだ。

 これを活用しないのは、もったいない限りである。英語の勉強は、「考え、理解し、憶える」事が大切だが、前二者については授業においては常に今日中央されるし、私もそれを強調する事において人後に落ちないが、後者の「憶える」事の大切さについても、ここで力説しておく。

 しかし憶えるには先ず理解しなければならない事は、言う迄もない。諸君は辞書や参考書を使い、それでも分からなければ英語の先生に質問し、先ず英文を理解し、しかる後に覚えて欲しい。「700選」を覚えた学生が「先生、もう模擬試験では分からない構文はひとつも無くなりました。」 と目を輝かせていって来るのを私は幾度も経験している。諸君にはその喜びを味わって貰いたいのである。「700選」暗唱の効果が絶大なものであることは、やり抜いたものだけが知っている。

元の出典不明 『「700選」暗唱の意義と効果』

 これを読んだのはもう何年も前だが、自分にとっては衝撃的だった(そのくせまじめにやっていないというのが自分らしいが・・・)。「型」と無意識化と創造性のつながりを教えてくれた最初のものだった。

 その「型」を作るには?ということが問題である。「体で覚える」という言葉があるように、身体性を意識しなければならないのかもしれないと最近は思うようになった。ただ頭だけでやっていると、どうしてもぬけが生じる。たとえば、英文暗唱の場合、ただ頭だけでやっているといざそれをテストしてみる段階であまり覚えていないことが多い。声に出してみたり、書いてみたりすると意外とできないのである。逆に、声に出してみたり、書いてみたりして覚えると勝手に体が覚えていてくれる。これが無意識化であろう。

 先日BSで「サウンド・オブ・ミュージック」をやっていた。その中で「エーデルワイス」を歌っていたのだが、ふと小学生の時にリコーダーで練習したときのことを思い出した。あのときはいとこに教えてもらっていたのだが、「エーデルワイス」を何度も練習し、最後には譜面を見ないで吹くことができさらには拍子がきちんとあっていた(と小学校の先生は言っていた)。これで笛吹になったわけではないけれども、これも無意識化だったと思う。

 ほかにも小学校の時には、あの「スイミー」を何度も音読して諳んじることができた。これもたぶん黙読をしていたらできなかったのではないか?と思う。

 小学6年生の時の先生は変わった先生で、色々と暗唱をさせられた。「枕草子」、「方丈記」、「平家物語」などの冒頭、プーシキンの詩、ほかにもいろいろあったが、これらは今でも言うことができる。ここで言いたいのは、物事をするときにもっと身体性を使っていかなければならないと言うことである。

 先日「日日是好日 —「お茶」が教えてくれた15のしあわせ」でも書いたけれど、茶道では自我を入れずにただ、お茶をするという行為を繰り返す。スポーツと違って競争という側面はないので、そんなことやってもなんの役に立つのか?と思われるかもしれないが・・・。

書評: 日日是好日 —「お茶」が教えてくれた15のしあわせ

 東洋哲学というのは、習慣による「型」という身体性を通して無意識にアプローチをする方法を心得ていたのだろうか。