書評: 愛するということ

愛するということ
著者: Erich Fromm
ページ数: 214ページ
出版社: 紀伊國屋書店
発売日: 1991年3月

 「愛とは技術だろうか。」本書はこの言葉から始まる。

 数ヶ月前から、どうしたら愛することができるのかということを考えている。そしてplaisir.genxx.comというサイトで「独身女性の性交哲学」という本の書評を見たときに、本書が取り上げられていて、そういえば本棚にあったなぁと思い出して読み始めたみた。

独身女性の性交哲学
著者: 山口みずか
ページ数: 232ページ
出版社: 二見書房
発売日: 2007年11月30日

独身女性の性交哲学 / 山口みずか – plaisir.genxx.com

 以前書いたかもしれないが自分自身の過去を鑑みて、愛されたことで倖せになったのかどうか?ということを考えると、実はそのときはあまり倖せではなかったと感じていた。一方で、そんな中でもふと自分から愛情がわき出しているなと感じたとき、それはとても倖せだと後からみたら感じていたのだなということに気がついた。それからというもの、どう考えても愛されるよりも愛することの方が倖せだということになって、人と付き合ったときにどうして自分は十分に愛せたと思えるほど愛せないのか?ということを考え始めたというわけである。

 この本ではわたしは非常に重要だ思うことが呈される。

 ヴィクトリア朝時代には、他の伝統的な社会の場合と同じく、愛は、結婚へと至ることもありうる自発的な個人的体験ではなかった。それどころか、結婚は双方の家あるいは仲人によってまとめられるものであり、そうした仲介者がいなくとも話し合いによって取り決められるものであった。結婚は社会的な配慮にもとづいて取り決められるものであり、結婚した後ではじめて愛が生まれるのだと考えられていた。

 このことはある一面において真実かもしれないと思っている。根拠がないのが説得力に欠けることであるが、考えられてきたというのはある程度確信を持って信じられてきたということだったので、現在の「ロマンティック・ラブ」(というそうな?)が一面において真であるような程度に真であるような気がする。

 であるとしたら、なぜそんなことが起こるのか?ということが問題となる。つまり冒頭に挙げた、「愛は技術だろうか?」という疑問に行き着くのである。そして、この本はそれを真であることとして話を進める。

 心理学、西洋哲学、東洋哲学、あらゆる方面から様々なたとえば母親による愛、父親による愛、兄弟愛とか神との愛、そしてお得意の(笑)自己愛などを考察する。著者の東洋哲学と融合させた一神教観は非常に見事なものだと思えた。

 最近、田中メカ著の「キスよりも早く」という漫画を読んで、さらにこの本の内容を考えた。

キスよりも早く
著者: 田中メカ
出版社: 白泉社
発売日: 2007年7月5日

 あらすじは、教師の尾白一馬(24)と両親を亡くした生徒の梶文乃(16)が「キスよりも早く」結婚してしまうという話。その生徒には弟、鉄兵(4)がいて、その弟を守るために、養ってもらうということで結婚した。最初は特に何も思っていない文乃であったが一馬の注ぐ愛情に惹かれていく。一馬には実はすごい過去があってという、まあありきたりといえばありきたりな展開である。

 まさに上に挙げた、ヴィクトリア朝時代云々の話である。

 それにしても激甘な漫画であって、こんなのは漫画であって理想論に過ぎないといわれればそれもそうかもしれない。この甘々な展開をニヤニヤして眺めるのもいいのだけれども(実際とてもニヤニヤできる)、メタな視点で見てみるとどうだろう?

 すなわち、結論としては当たり前のことになるのだけれども、どれだけうまくいくかというのは、どれだけお互いが愛されることにコミットするのではなく、愛そうとすることにコミットしたかによるのではないか?それは裏返すと、相手のためになりたいという欲求であって、それで相手が喜んでくれると嬉しくなって自分のことが好きになるし、相手のことも余計好きになる。つまりは、愛するということからさらに自分自身の中から、愛情が引き出されるという、ポジティブフィードバックである。

 一馬と文乃の夫婦は不器用ながらも、お互いがお互いを喜ばせようとする。役に立とうとする。そして、相手と一緒に喜んだ場面を思い出して、ああこんなにも大好きなんだということを自覚する。この思い出して自覚するというのが非常に強力なポジティブフィードバックになっているようにわたしには思える。

 コミットするというのは、今までの自分を超えていこうとすることなのかもしれない。愛そうとすることにコミットしようとしても、実際はたとえば恥じらいであったり、受け取ってもらえなかったらどうしようという不安であったり、そういうものが行く手を阻む。それを強力なコミットで乗り越えようとするのか?過去の自分(過去に受けた傷)を超えていこうとしなければ、できないことである。

 本書では著者はコミットという言葉の代わりに「信じる」という言葉を使っている。

 愛に関していえば、重要なのは自分自身の愛に対する信念である。つまり、自分の愛は信頼に値するものであり、他人のなかに愛を生むことができる、と「信じる」ことである。

 そしてコミットすることというのは、過去の自分を超えていくということだということを、このように表現する。

人は意識のうえでは愛されないことを恐れているが、ほんとうは、無意識のなかで、愛することを恐れているのである。

 愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に、全面的に自分をゆだねることである。愛とは信念の行為であり、わずかな信念しかもっていない人は、わずかしか愛することができない。

 ほかには「ちいさな王子(星の王子様)」では「なつかせる」と表現する。

ちいさな王子
作者: Antoine de Saint-Exupéry
ページ数: 174ページ
出版社: 光文社
発売日: 2006年9月7日

ちいさな王子

「ううん。友だちがほしいんだよ。『なつかせる』ってどういう意味なの?」
「それはね、つい忘れがちなことなんだよ。『きずなを作る』といういみなんだ」
「きずなを作る?」
「そうだとも。ぼくにとってきみはまだ、たくさんいるほかの男の子たちとおなじ、ただの男の子でしかない。ぼくにとっては、きみがいなくなったってかまわないし、きみだって、ぼくなんかいなくてもいいだろ。でも、もしきみがぼくをなつかせてくれるなら、ぼくらはお互いが必要になる。きみはぼくにとって、この世でたった一人のひとになるし、きみにとってぼくは、この世でたった一匹のキツネになるんだよ・・・・・・」

Antoine de Saint-Exupéry 『ちいさな王子』

そりゃ、通りすがりの人にとっては、ぼくのバラもきみたちと区別がつかないだろうね。でも、きみたちみんなを集めたよりも、あの一輪のバラのほうが大事なんだよ。だってぼくが水をあげたのはあのバラなんだもの。ガラスのケースもかぶせてあげた。ついたても立ててあげた。毛虫だって退治してあげた(チョウチョになれるように、二、三匹は残しておいたけど)。ぐちだって、自慢話だって聞いてあげたし、何もいわないときだっていっしょにいてあげたんだ。だって、ぼくのバラなんだもの

Antoine de Saint-Exupéry 『ちいさな王子』

時間をかけて世話したからこそ、きみのバラは特別なバラになったんだ。

Antoine de Saint-Exupéry 『ちいさな王子』

 すなわち愛そうとすることにコミットしなければ、いくら最初に好きだったとしても、時には逆らえずただの人になってしまうのであろう。

 そして、愛そうとすることにコミットするためには、同時に受け取ることも非常に重要となる(両面となる)。一馬は文乃の笑顔を十分に受け取って、文乃は一馬から様々なことを受け取って、だからうまく回っていこうとする(実際はうまく回るかどうかはまた少し違うのかもしれないが、ヴィジョンとしては)。これを受け取ってもらわなかったら、やる気が失せるしどんどん負の方向に行くのは容易に想像可能である(その意味で、受け取るということも実は自分を超えていくということになる)。実際過去の自分を振り返っても、受け取らなかった自分は相手をどんどんと負の方向に持って行ってしまった。

 そして、このことたぶん人だけではなく、仕事に対しても同じなのだろうと思うようになった。何かおもしろいものを与えてもらうのではなくて、自分がコミットすることでその仕事を好きになっていく。もちろんおもしろいことを自分で探すのも重要なのだろうけれども、それはあくまでも種に過ぎない。その仕事を最大限におもしろく感じるためには、それに対してどれだけ愛そうとコミットするか、育てるのかによるのかもしれない。

 これは、茂木健一郎による「脳を活かす勉強法」にも通じる。

脳を活かす勉強法
著者: 茂木健一郎
ページ数: 192ページ
出版社: PHP研究所
発売日: 2007年12月4日

書評: 脳を活かす勉強法

 あの書評では書かなかったようだけれども(あれはひどい書評かもしれないw)、かの本での重要な点の一つは「どう自分を喜ばすか?」であった。そのために少し高いハードルを掲げて、それを達成することで快感を得るということをしたのであった。快感を得ることで、さらに自発的にやろうとする。それは先に記した、愛したことでさらに愛情が引き出されるということに他ならないのではないか?

 さらには、どこかで書いたかもしれないが、先日放送されたNHKのプロフェッショナル仕事の流儀という番組のイチローが出演した回において、イチローは自分自身が満足屋であることを語っていた。何かを成し遂げたときにまずは大満足をして、満足しきる。そうすると次に進むべき道が見えてくると。ただしこの二つの間には、重要な点が一つ隠されているような気がする。満足することで自分が好きになるし、やっていることも好きになるということである。

 これらのことは久しぶりに出すけれども、ヴィジョン心理学でも言っていた。

傷つくならば、それは愛ではない
著者: Chuck Spezzano
ページ数: 471ページ
出版社: ヴォイス
発売日: 1997年11月1日

 この本?だったか忘れたけれども、仕事に対しても与えることが重要であるというのを読んで、はぁとしか言えなかったのだけれども、もう少し深いところで感じられるようになってきたかもしれない。

 いささか多くの文献を引きすぎて非常に長くなってしまったが(すみません)、こんな風に様々なことが実に抽象化すると一点に集まるように絡み合っているのが自分には見て取れる。

 愛情というのは強力なコミットを如何にしてするのか?ということによるものではないか?といよいよ思えてきた。それをどうやって自分を超えてコミットすればいいのか?まだ答えが出ていないところではあるが・・・。

 目標まで残り179冊。(いつも以上に文章が雑多になってしまってすみません。)