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書評: 脳を活かす勉強法

脳を活かす勉強法
著者: 茂木健一郎
ページ数: 192ページ
出版社: PHP研究所
発売日: 2007年12月4日

 今をときめく???茂木健一郎氏の本。

 読んだのは幾分前なのだけれど、確か30 〜 40分ぐらいで読めたような気がする。そんな感じだから、軽い本だし、客観的データが出ていないという批判はもっともであると思う。

 本書の中で言われていることはいくつかあるが、わたしが気になったのは以下の部分である。

苦しければ苦しいほど、その後の喜びは大きく、より強化される。これが脳のメカニズムです。この「苦しい」状況を何とかして突き抜けることは、とても重要なことです。

(楽しむという点は置いておいて)脳に負荷をかける。負荷をかけることで、それになれ、いつの間にかそれが当たり前になりより高いレベルへと飛翔することができる。

 これは先に挙げた、森下典子による「日日是好日 —「お茶」が教えてくれた15のしあわせ」と同じなのかもしれない。

書評: 日日是好日 —「お茶」が教えてくれた15のしあわせ

 その間に、自分でも気づかないうちに、一滴一滴、コップに水がたまっていたのだ。コップがいっぱいになるまでは、なんの変化も起こらない。やがていっぱいになって表面張力で盛り上がった水面に、ある日ある時、均衡をやぶる一滴が落ちる。そのとたん、一気に水がコップの縁を流れ落ちたのだ。

 湯川秀樹も、小さい頃祖父から漢籍の素読を教わったことが、大きな収穫をもたらしたようだ。

書評: 旅人 – 湯川秀樹自伝

 しかし私の場合は、意味も分からずに入っていった漢籍が、大きな収穫をもたらしている。その後、大人の書物をよみ出す時に、文字に対する抵抗は全くなかった。漢字に慣れていたからであろう。慣れるということは怖ろしいことだ。ただ、祖父の声につれて復唱するだけで、知らず知らずに漢字に親しみ、その後の読書を容易にしてくれたのは事実である。

 そのような感じで最近いくつかの本を読んでいて、苦痛を与えないといけないのかな?と思うようになった。苦痛を与えて、ある程度突破した先に何かが見えるのかもしれないと思うようになった。

 それとともに、もっと自分の脳を信用していいのではないか?と思っている。とりあえず訳も分からずやってみて、後は自分の脳が整理してくれるのを待つという寸法である。これは意味が分からずやるので、なかなか辛い方法ではあるのだが。そのとき大事なのはスピードではないか?と以前からいっているように考えています。大量にインプットして頭で整理されるのを待つ。

 この茂木氏の本において、スピードに関することは、大量にインプットを目指すというよりも、時間を計って負荷をかけ短時間で大量に処理をするという方法をとっている。

 大量にインプットして頭で整理されるのを待つという方法は、この「図解超高速勉強法―「速さ」は「努力」にまさる!」という本に書いてあったような気がする。

図解超高速勉強法 — 「速さ」は「努力」にまさる!
著者: 椋木修三
ページ数: 249ページ
出版社: 経済界
発売日: 2004年11月

 だいぶ話が遠いところに来てしまって、あまり書評っぽくなくなってしまった。文章ものらりくらりして下手で申し訳ない。いいたかったのは二つ。

  • 負荷をかける
  • スピードを上げる

書評: 日日是好日 —「お茶」が教えてくれた15のしあわせ

日日是好日 —「お茶」が教えてくれた15のしあわせ
著者: 森下典子
ページ数: 237ページ
出版社: 飛鳥新社
発売日: 2002年1月

 本棚にしまっておいたこの本を何気なく取り出して読んだ。読み始めたらあっという間に読み切ってしまった。

 改めて、知の有機性というか有機的つながりの大事さを感じた。だからこそ、自分はできる限り学問領域をとらえる上では区別をしても、文系・理系などというある種ルサンチマン的な区別(多くの場合はそうされているような気がします)はしたくない。

 内容は、お茶、茶道を通してみたエッセイと言うところであろうか?

 お茶にはたくさんの「しきたり」があるようであるが、最初はその「しきたり」の理由・意味などは問わずに、むしろ考えないようにして、それをひたすらただ言われるがままになす。最初はその言われるがままにするという態度に反発を抱いていた作者も、ふとある瞬間、その理由・意味などに気がついていく。

 この点については冒頭のこの表現が秀逸である。

 どしゃぶりの日だった。雨の音にひたすら聴き入っていると、突然、部屋が消えたような気がした。私はどしゃぶりの中にいた。雨を聴くうちに、やがて私が雨そのものになって、先生の家の庭木に降っていた。

(「生きてる」って、こういうことだったのか!)

 ザワザワッと鳥肌が立った。

 お茶を続けているうち、そんな瞬間が、定額預金の満期のように時々やってきた。何か特別なことをしたわけではない。どににでもある二十代の人生を生き、平凡に三十代を生き、四十代を暮らしてきた。

 その間に、自分でも気づかないうちに、一滴一滴、コップに水がたまっていたのだ。コップがいっぱいになるまでは、なんの変化も起こらない。やがていっぱいになって表面張力で盛り上がった水面に、ある日ある時、均衡をやぶる一滴が落ちる。そのとたん、一気に水がコップの縁を流れ落ちたのだ。

 そしてただ単に気がつくのではなくそれらが有機的に線になっていく。それが積み重なっていくうちに、自分の内的成長にも気づいていく。

わかってみると、その流れは、徹底的な合理性に貫かれていた。さまざまなことが、ストンと腑に落ちた。すべてのことに理由があり、何一つ無駄ではなかった。

 「茶事」は、私たちが毎週、稽古してきたことの集大成だった。

 先生の家には毎回その日にあった掛け軸がかかっているのであるが、タイトルにもなっている「日日是好日」の掛け軸は毎回かかっている。その意味にに気づくというか発見したときの著者のその感触を、自分にもありありと感じられたような気がする。言葉には言葉以上のものが詰まっているのであった。

 この本で改めて学びと言うことがなんなのか?ということを思い出させてもらったのと同時に、東洋哲学のすばらしさ、そして日本語の美しさにも触れられたような気がする。非常にすてきな本である。

 気づくこと。一生涯、自分の成長に気づき続けること。
 「学び」とは、そうやって、自分を育てることなのだ。

「心で解る」までの時間

 以前書いていたけれども、書きかけで放置していたものをようやく書けるようになった気がするので書きます。

 先日、「絶望して諦めたこと」というタイトルで書いた「他人を制御しようとすることを諦める」エントリのことなのだけれども、そのエントリの最初の部分に書いたのは「思考の上では」ということだった。

絶望して諦めたこと

 というのは、まだまだとても実践できている状態ではないから。

 やっぱり、人に対して腹が立つことがあったりあからさまに不機嫌な状態を表現して、他人を制御しようとすることもある訳で。

 思考の上で納得するのと、心が納得する、解るまでにはだいぶタイムラグがあるような気がする。自分は心で納得できたとき、わかったとき、初めて実践が少しずつできていくような感触を持っている。

 では、実際に心で解るということはどういうことなのか?

 それは「ピンと来る」という感覚と同じなのではないか。このピンと来る感覚、「数学を感動する頭をつくる」という本で非常に良い説明がされている(この本は数学のみならず、一般的に学習したという状況は頭がどのような状態になっていなければならないかということを一般化してあるので抽象的であるけれども、非常に明確に説明していると思われる良書だと思う)。

わかるとは、自分が抱いている世界の中に、きちんと(ピンと)未知事項を位置づける能力のことなのである。

数学に感動する頭をつくる
著者: 栗田哲也
ページ数: 253ページ
出版社: ディスカヴァー・トゥエンティワン
発売日: 2004年6月30日

 自分の頭の中に、考えていることがすっと収まる場所が見つかる。それが心で解った状態なのではないかと今は考えている。

 だとしたら、頭の片隅に置くこと、もしくは考え続けること、さらに意識的に実践していくことが心で解るためには非常に大切な、むしろ必須事項であると考えている。

 なぜなら心で解るということがたいていの場合に訪れるのは、自分にとって何か重大な出来事が起こったときや、ずっと考え続けていて、あるときああそういうことかと「ピンと来る」とき、もしくは意識的に実践しているうちにこれはもしかしてこういうこと?と「ピンと来る」ときだから。それらが起こるためには、日々頭の片隅に無ければ気がつかないのではないか?

 と、だいたいここまで書いていてなぜか放置してあった。読み返してみると、ここから解るとはなんなのか?ということを書こうとしていたようなのだけれど、解るとは、上に書いてあるように思える。もしかしたらほかのことを書こうとしていたのかもしれないけれども。

 なぜ、続きを書こうと思ったのか?それは昨日少しこの心で解るという瞬間が訪れたからである。

 とある人間関係のことを考えていたというか、自分自身の感情と行動を思い出していた。そのときの感情は、寂しさから他人を攻撃することを自己正当化していたということであった。

 そのとき、以前紹介したヴィクトール.E.フランクルの「夜と霧」でフランクルが一番言いたかったことが突如として降ってきて、心にすとんと落ちてきたのであった。

それはなにも強制収容所にはかぎらない。人間はどこにいても運命と対峙させられ、ただもう苦しいという状況から精神的になにかをなしとげるかどうか、という決断を迫られるのだ。

「強制収容所ではたいていの人が、今に見ていろ、わたしの真価を発揮できるときがくると信じていた」

 けれども現実には、人間の真価は収容所生活でこそ発揮されたのだ。おびただしい被収容者のように無気力にその日その日をやり過ごしたか、あるいは、ごく少数の人びとのように内面的な勝利をかちえたか、ということに。

ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。哲学用語を使えば、コペルニクス的転換が必要なのであり、もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。考えこんだり言辞を弄(ろう)することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることに他ならない。

夜と霧 新版
著者: ヴィクトール・E・フランクル
ページ数: 169ページ
出版社: みすず書房
発売日: 2002年11月6日

 具体的に抜き出すとすれば、このような部分であろうか。この内容が頭に降ってきた。そして、臨床心理学を学んで、他の人よりは自分というものを理解できている、客観的に判定ができているのであるけれども、それを行動に活かしていないという現実をまざまざと見せつけられたのであった。

 そして、この文章の、この真理というものが心で少し解ったのであった。自分自身も刻々と問いに対する答えを求められていたのだと。

 心で解るまでの時間は普通は長くかかるのであるが、解るのは一瞬である。

 ただ、解るためにはやはり日常生活に対して「気づく目」を持っていなければならないと改めて思ったのであった。真理は至る所に転がっているが、往々にして通り過ぎてしまうのである。

これでは伸びるはずがない

 今まで、試験勉強とかなんですが、本当に嫌で嫌だーと思いながらやっていました。そのため当然のごとく集中力は続かないし、伸びない。

 自分の場合は他人と比較すると萎えるので、やっぱり過去の自分自身と比較するしかないと思いました。そして、決めたところまでできたら、できるじゃんと自分にほめる。

 そうやっていって負荷をかけ続けるしかないと思っています。負荷をかけ続けた先にようやく光が見えてくるのかもしれません。

書評: 旅人 – 湯川秀樹自伝

 最近は自伝を読むのが好きである。理由は元気をもらうため。

 今回はノーベル物理学賞を獲った湯川秀樹博士の中間子論を思いつくぐらいまでの自伝である。

旅人 – ある物理学者の回想
著者: 湯川秀樹
ページ数: 241ページ
出版社: 角川書店
発売日: 1960年1月

 元気をもらうためと書いたが、やっぱりこういうすばらしい業績を上げた人は幼い頃から神童であるというのがあからさまに見えるので、打ち砕かれそうになるのもまた事実である。

 それはいいとして、旧制三高 → 京都帝国大学という流れを持った人はやはりすさまじい教養を持っているのだなぁと感じた。そして今の時代とは違って、大学を出るということがいかに名誉なことだったのかということが透けて見えた。モチベーションの違い。それは半端がない。

 この時代でも文科、理科という区別はあったのであるが、湯川秀樹も福井謙一も全く関係なくそれらを学んでいるのである。そして語学にも堪能というほどではないが、文章を読むことぐらいは可能であったようだ。同じ中学生の時、彼らはしっかりと教養も学び、今では高校で習うようなことも学んでいる。あまりの違いに愕然とする。

 しかしながら、愕然としていても仕方がない。今からできるようになるしかない。彼らはわたしのロールモデルである。

 茂木健一郎は、自身の日記「クオリア日記」で尖る方向へのピア・プレッシャーの必要性を述べている。

ピア・プレッシャーには二種類ある。
一つは、「平均値に引きずり下ろそう」という
ベクトル。
「わかりやすさ」を追求する日本の
メディアの状況は、まさにそれだ。

もう一つは、どんどん尖る方向に
煽るようなピア・プレッシャー。
「お前、ドゥールーズ何冊読んだ?」
「三冊だよ。」
「そうか。まさか、日本語で読んでいるんじゃ
ないだろうな」
といった、鋭利さを加速させるような
圧力の作用。

日本はいつの間にか前者のピア・プレッシャーの
国になってしまった。
しかし、「わかりやすさ」を標榜して
幻の平均値を設定するのは一種の「談合」
である。

尖るというのは「偏差値」のような単一の
ものさしによるモノカルチャーではない。

みんなそれぞれ尖る方向は違う。
みんな違ってみんないい。
そのトンガリを、
談合でつぶすな。引きずり戻すな。

以上のようなことを申し上げた後、
「これからは、インテリの逆襲の時代ですよ」
と言ったら、会場から拍手が起きた。

講演中に拍手をもらったのは
はじめてである。

まぼろしの「普通」なんて知ったことか。
みんな、それぞれ信じる、愛する
方向にとんがろうぜ。

 昨年から少しずつこのピア・プレッシャーの必要性を感じて、でも周りにはあまりいないので自分自身にかけていこうと感じている。ピア・プレッシャーではなくセルフ・プレッシャー(もちろんピアの方がいいのであるが・・・)。

 智は青天井である。自分は自伝を読んで改めてそう感じるのである。もっともっと尖る方向にいきたい。

あけましておめでとうございます

 2008年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

 一年の計は元旦にありありとういうことで、少しは目標ぐらい立てようかなと思います。10個出しましょう。

  • 自分自身に言い訳をしない
  • 7時までに起きて、25時までに寝る(土日関係なく)
  • 15分以上の昼寝はしない
  • やりかけのアロマテラピーなどに挑戦する(臆せず様々なことに挑戦する)
  • 論文を2本出す
  • とあるアプリを作って出す
  • コードを10万行書く
  • 本を200冊以上読む
  • 読んだ本は必ずblogで書評する
  • 傾聴を少しでもマスターする

 書いてみたものの、あんまり具体的じゃないなぁ。具体的に書けない目標は何ともいけませんね。

 早寝早起きはすでに失敗しています。でも、これができないとなかなかつらいことに今年もなりそうだと思って。

 本を200冊以上というのはかなりつらいところです。今の状態なら月10冊の計120冊は可能ですが、かなり超えています。負荷をかけてみるという意味で書いてみました。

 1月2日の「プロフェッショナル仕事の流儀」はあのイチローさんです。今日の新聞に若干その内容が記してありましたが、苦しまないと光は見えてこないということでした。それから考えると、今の自分はあまりにも苦しみから逃げているような気がしています。

 苦しむことが楽しいみたいなある種のマゾ的な要素が必要になるのかなぁと思っているところです。そんな自分をどう創っていくのか?

 そうそう、一人暮らししたいけれど、本がなぁという感じです。これも言い訳でしょうか(笑)?でもすべての本を手元に置いておきたいのですよね。大金をかけてなぜ本を買うのか?付箋ができるようにということもありますが、読みたいときに読めるようにです。

 この1年で成長したといえば成長したと思います。1年って短いけれど、でも色々なことができるんだなぁと最近思いました。が、もっともっとペースを上げていきたい。まだまだ行けると信じて。

 目標をもう一つ忘れていました。これは角田光代さんの「対岸の彼女」からの引用を持って

ひとりでいるのがこわくなるようなたくさんの友達よりも、ひとりでいてもこわくないと思わせてくれる何かと出会うことのほうが、うんと大事な気が、今になってするんだよね

角田光代 『対岸の彼女』

一人でいても怖くないんだということを心で解る。

 つまりは一人も楽しめるようになるということですね。一人で楽しめて初めて二人でいて倍増以上になる。寂しさでつながった関係はきわめてもろいような気がしています。