Category Archives: Psychology

対岸の彼女

対岸の彼女 (文庫本)
著者: 角田光代
ページ数: 288ページ
出版社: 文藝春秋
発売日: 2004年11月9日

ひとりでいるのがこわくなるようなたくさんの友達よりも、ひとりでいてもこわくないと思わせてくれる何かと出会うことのほうが、うんと大事な気が、今になってするんだよね

 本棚に数ヶ月ほっぽりっぱなしになっていた。読み始めたら、最後まで読み切ってしまった。

 自分の居場所は?自分の居場所ってどう作るの?

 そんな疑問に対して愚直にあがき続けた登場人物たちの過程を、ただ淡々と丁寧に描き続けたのがこの小説なのではないか?

 きっと人間にはそんな居場所(生き甲斐)が必要なのだろう。

 居場所は友達の間でもいいし、仕事の中にでもいい。見つける過程には、いろいろと傷つくこともあるだろうし、いろいろと大切なことにも気づいていくだろう。

 そのあがきを、心理描写を、丁寧に描いたからこそ、そこにリアリティが生まれ、共感を覚え、考えさせられるのではないか。

 タイトルは彼女たちではなく、彼女になっている。ふとその意味を自分なりに空想してみると、誰にでも当てはまることだからではないだろうか?彼女はほかの誰でもない我々なのであろう。

 だからこそ、この小説は我々自身があがいているということを 1 、まざまざと、まるで鏡のように映し出す。

 これは小説と見せかけた哲学書だと思う。

  1. と決めつけてはダメ(笑)??? []

「正しさ」と揺らぎ

[以前書いたエントリが全部書ききれなくて残っていたので、それを適当に書き換えながらアップロードすることにしました。]

 世の中にいる人の数だけ考え方があって、だから正しいことなんて無いのかどうかわからないけれど簡単に見つけることはできない。「正しいこと」というのはとても難しくて、ある種みんなが「正しい」と思いこんでいるから、「正しい」ことというのもいっぱいあるのでしょう。

 人の考え方を知って、ああこんな見方もあるのだなぁとそれを楽しむのは確かに良いのだけれど、じゃあ自分はどうしようか?と考えたときに少し困る。正直、正しいことのなさというのは自分の中ではかなり絶望感を生むような気がする。

 人を傷つけないなんていうことは無くて、ないのであれば、自分はできる限り傷つかないことを選ぼうとしたいとは思う(実践は今はまだなかなかできないけれど)。それは、自分を守るという意味ではなくて、傷つく傷つかないという概念から自由になることだと自分は思っている。

 人に対して傷ついた傷ついたと泣きわめくのは(だからといって傷つけて良いといっているわけではない)、人に対して自分をこういう風に扱え!という無意識の、なのでたちが悪い、非常に暴力的な行為だと感じる。その心は自分の中では他人というのは、たとえ家族や恋人であったとしても縛ることはできない、心は縛れないということはできないという(自分の)絶対的前提条件にある。

 人間の思考、ものの見方には限界がある以上、傷つけて良いというわけではないが、だとしたら、だからといって傷つけたといって簡単に責めて良いというわけではないとも思う。

 しかしながらそういうことを書くと、たとえば「悪いこと」をしたら責任を取らなくて良いのかという議論が出てくるのは必至で(これは見かけほど簡単ではない)、じゃあ、そこで「悪意」があるか無いかなんかの基準で判断してしまうと、悪意よりも恐ろしい「善意」だったらいいのかという問題になる。正直、この問題はうんざりしていて、でもある程度自分の中で答えを出さないといけないなぁと感じてもいるのだけれど、なかなかそう簡単に出るものでもない・・・。

 ただ、こういうことに傷つく人もいるんだということを知るのは重要。

 「2日で人生を変える『箱』の法則」を読んでから、「人としてみる」ということはどういうことかというのを意識し始めた。まだ自分の中で結論は出ていなくて、でも少なくとも「受け入れる」ということは重要な要因となるのではないかとは思う。人間であるから、怒っているときもあるし、弱いときもあるしということを受け入れる。それは自分を受け入れることができてから、より高いレベルとして他人に対してもできるのだと思うのだけれど。

 正直、一神教的な「善悪」は簡単で良いなとうらやんでしまう。これに乗っかってしまえばいいというお手軽さ。ああだから一神教が流行るのか。そう今書いていて思った。

 しかしながらもはや自分はパンドラの箱を開けてしまったんだ。

2日で人生が変わる「箱」の法則

 先日、ちょこっと紹介しましたが、「箱」本、第2弾。「2日で人生が変わる『箱』の法則」を購入し読みました。

「箱」本、第2弾登場

2日で人生が変わる「箱」の法則
著者: The Arbinger Institute
ページ数: 300ページ
出版社: 祥伝社
発売日: 2007年9月6日

 まず最初に大まかな感想を書いてしまうと、第2弾の方がさらによくなってる!!!ということです。心理療法(を語れるほどではないですが)の知見の肝となる要素がかなり含まれているのではないかと思いました。正直書きたいことはめちゃめちゃあるのですが、、、ぐっとこらえて、読んでください(しばらくしたら書くかも)。

 私にとっては大変な悶絶本でした。心理療法の知見の肝となる要素が含まれていると書きましたが、それらここの要素が頭の中で一瞬にしてつながってしまいました。

 大きなキーワードは、前書でも出てきた「人を物としてみること」、そして今回大きく取り上げられる「自己正当化」。これらを行ってしまうがために、大多数の争いが起こってしまうのではないか、というのが本書の主張です。

 であるならば、その逆を行けばいい(そう簡単にはいけないけれど)というのがその解になる。

 実はこの見方、とある方が実践されているのですよ。

 それは任天堂の岩田社長。今、「ほぼ日刊イトイ新聞」に連載中の糸井さんと岩田さんのお話を見てみましょう。

任天堂の岩田社長が遊びに来たので、みんなでご飯を食べながら話を聞いたのだ

プログラムの世界は、理詰めです。
だから、もしも完動しないとしたら、
原因は全部、プログラムしたこっちにある。
わたしは人と人との
コミュニケーションにおいても、
うまく伝わらなかったら
その人を責めずに自分の側に原因を探すんです。

だって絶対間違ってるんだもん、プログラムが。
だから、人と話してうまくいかなかったら、
「わからない人だな」と思う前に、
こっちが悪かったんだろうと思う。

プログラマーとしての思考モデル

 もし岩田さんが、人を物としてみて相手が悪いと考えたら?わからないのは相手が悪いと自己正当化したら?はたして・・・。

 今、読んでいて思ったけれど、岩田さんコンピュータに対しても非常に謙虚だなと。とてつもなく謙虚。だからこそ天才プログラマーになったのかもしれません。

 相変わらずとてつもなく良書です。マンセーしすぎると信者と思われるかもしれませんが、それでもかまいません。とてつもない名著です。

 人間はいくつになっても成長できる。その心はたとえ子どもであっても子どもではないということ、つまりは人であるということ。そして、幾ら年を取っていても成長しているとは決していえないということ。それを心にしっかり刻み込んで、日々過ごしていこう。

「箱」本、第2弾登場

 昨年、ようやく「自分の小さな『箱』から脱出する方法」として復刊された「箱」本ですが、第2弾が登場するようです。以前紹介したときは、第2弾がアメリカ本国では出てますよ的なことを書きましたが、ようやく日本語で読めるようになります。

帰ってきた「箱」: 自分の小さな「箱」から脱出する方法

 タイトルは「2日で人生が変わる『箱』の法則」とのこと。

2日で人生が変わる「箱」の法則
著者: The Arbinger Institute
ページ数: 300ページ
出版社: 祥伝社
発売日: 2007年9月6日

主人公ルーは、なぜカリスマ経営者になれたのか? 彼の人生を変えた、奇跡の2日間の「奇跡のセミナー」が、今はじまる

前書『自分の小さな「箱」から脱出する方法』でカリスマ経営者として登場するルー・ハーバートは、20年前のこの2日間の「奇跡のセミナー」で、初めて家庭生活と職場を変えることができる考え方を学んだ。
自分を変えることができれば、まわりの人も正しい方向へ導ける。人間関係に関するあらゆる問題を解決するための「箱」の法則のすべてを明かす、待望の第二弾、ついに登場!

 発売日がAmazonによると9月6日ということで、明日かな 1 。明日は早速書店に行って確認してみようかなぁと思っています。

  1. The Arbinger Instituteによると、あさってかもしれない、書籍の発売日は結構適当です。 []

悶絶するとき

 すごい文章を読むと、悶絶して、そこでいったん読むのを止めて、心の中でうごめくなにかが静まるのをしばし待つ。

 そういうときはあたりをぐるぐると歩き回ったりする。それが静まる間に、ぐるぐるしながら自分の中でそのすごい文章と感情を置く場所を探すの。だからね歩かずにはいられなくなるような、そんな感じになる。

 今「ほぼ日刊イトイ新聞」というサイトで、任天堂社長の岩田さんと糸井さんの対談のようなものが連載途中。

任天堂の岩田社長が遊びに来たので、みんなでご飯を食べながら話を聞いたのだ

 これ自体、ものすごくおもしろいのだけれど、久しぶりにこの二人の以前の対談を読んでみようという気になって読み始めた。

社長に学べ!

 何度も悶絶した。

 キーワードを抜き出すと、共感をいかにして得るか、「善意」の怖さ、「正しさ」の怖さ、覚悟、説得力のあるデタラメ、人は変わる、面談、続けること。

 この中で社員との面談のことが出てくるのだけれど、質問攻めにするときの質問ってどんなことを聞くのかなぁと、そこにひどく興味を惹かれた。

 人に共感をしてもらうためには、その人自身にこちらから興味を持って入っていかなければいけないのではないか?と思った。

 そういえば、旅館建て直しのスペシャリストの星野さんも面談してたっけ。

 岩田さんは、その人の隣に座ってその人が見ている景色を見ようとしている人だと思う。やってみればわかるけれど、これは本当に難しい。

 難しいけれども、岩田さんの場合は「覚悟」を決めてやっているのだろう。岩田さんの話を読んでいると、そういう「覚悟」を何度もしているというのに気づかれるでしょう。自分に必要なことの一つはそういった「覚悟」だと思う。

 最後に一つ注文があるとすれば、最近の対談を見てもそうだけれど、糸井重里という人はどうしても「理系」と「文系」とかいう(敢えて書くのだが)アホな、二項対立を持ち出したいのだなぁと、どうしてもそこに結びつけたいのじゃないか?という気がする。

 それが非常に気色が悪くてかなわない。

 でもね、それを岩田さんが華麗に受け流しているのが何度も見られて、そこが非常にステキ。

 余計ファンになりましたわ♪

気が狂うことへの幻想

 何を持って気が狂うというのかとか、そういう話から書かないといけないとは思うけれども、かけない。

 気が狂うことへの幻想。

 気が狂ってしまった当人にとっては壮絶なのだけれども、その壮絶さに少し憧れるのか。

 狂うということ、その甘美さに憧れるのか。

 気が狂ったことにして、現実逃避がしたいのか。

 わからないから、憧れるのか。

 本当は壮絶だって思うのに、周りだって大変だって思うのに、狂った自分を遠くから自分で見るということへの憧れか。

もういいかげんにやめなさい!

 最近あまりエントリを投稿していませんが、たまには。

「もういいかげんにやめなさい!」と、ツァラトゥストラは叫んだ。「その物の言いかた、その恰好、わたしは気色がわるくてたまらない!

 なぜあなたは、みずからも蛙や蟇になってしまうほど長いあいだ、泥沼のほとりに棲んでいたのか?
 今ではあなた自身の血管のなかにも、腐って泡だつ泥沼の血が流れているのではないのか?
 そのため、あなたはそんな蛙のような声をはりあげ、悪態ばかりつくのだ。
 なぜ、あなたは森の奥にはいらなかったのか? さもなければ大地を耕さなかったのか? 海には、緑なす島々がたくさんあるのではないか?
 わたしはあなたの軽蔑を軽蔑する。また、あなたが私に警告するくらいなら、—なぜ、あなたはあなた自身に警告しないのか?
 わたしの軽蔑、わたしの警告の鳥を、わたしは愛情のなかから飛びたたせたい。泥沼からは飛びたたせたくない!—
 人びとはあなたをわたしの猿と呼んでいる。口から泡をとばす狂人よ。しかしわたしはあなたのことを、わたしの泣き豚と呼ぶ、—不平がましく、ぶうぶう泣くことによって、あなたはせっかくのわたしの『愚神礼讃』をだいなしにしてしまう。
 いったいあなたに泣きごとを言わせた第一の原因は何だったのか? 誰ひとりあなたに十分に媚びてくれなかったということだ。—そのためあなたはこうした汚物のなかに坐り、それによって大げさに泣きたてる理由ができたというわけだ。
 —それによって、多くの復讐をとげる理由を手にいれたというわけだ! お体裁屋の狂人よ、つまり、あなたの口角の泡は、すべて復讐なのだ。わたしには見えすいている!
 しかし、あなたの気違いじみた言葉は、その言い分が正しいばあいでも、わたしに被害をおよぼす! またツァラトゥストラの言葉が限りなく正しいばあいであっても、あなたがその言葉を使えば、かならず—正しからぬ結果になる!」
 ツァラトゥストラはこう言った。かれは大都会を見つめ、溜息をつき、いつまでも黙っていたが、ついにこう言った。

 このわたしにかぶれた狂人ばかりではない。大都会そのものがわたしに嘔吐をもよおさせる。どこを見てもそれは改善できない。いや改悪もできない。
 わざわいなるかな、この大都会!—わたしはかかるものを焼きつくす火の柱が見たい!
 というのは、大いなる正午が到来するにさきだって、そうした火の柱が立たなければならないからだ。しかし、それにはその時があり、それ自身の運命がある!—
 だが狂人よ、別れぎわに、あなたにこの教えを残しておこう、「もはや愛することができないときは、—しずかに通りすぎることだ!」

 ツァラトゥストラはこう言って、狂人と大都会のかたわらを通りすぎて行った。

Friedrich Wilhelm Nietzsche『ツァラトゥストラはこう言った』通過より
 

 「ツァラトゥストラはこう言った」の中でも「重力の魔」の節に続いて、特に好きなところの一つです。ニーチェは限りなく人間を愛していた。だから、軽蔑や警告を愛情から発したかった。それが彼の言う大いなる軽蔑なのではないかと思います。復讐意志としての軽蔑はとても気色の悪いものだと最近感じます。

 また、「今ではあなた自身の血管のなかにも、腐って泡だつ泥沼の血が流れているのではないのか?」この部分に、心理学的な「投影」を見事に描いたものではないかとも自分には読み取れます。
「なぜ、あなたはあなた自身に警告しないのか?」自分自身の悪の部分を見ずに、それを周りに投影している。狂人に対し、ツァラトゥストラはきっぱりと言い切ります。

 さらに、「誰ひとりあなたに十分に媚びてくれなかったということだ」の部分には仏教的な「渇愛」も読み取れるのではないかと。十分に媚びてくれなかった理由として、復讐をおこなう。

 結局、愛することは大切なのかなぁと思いますが、愛を要求することは苦しいけれども、とても苦しいけれども、すべきことではない(とまで言い切ってしまっていいのか?という感じがしていますが)のではないかと、思っています。愛する愛さないは悲しいけれども、相手の自由であると。

 ニーチェは哲学とされていますが、自分自身は心理学として捉えています(この二つに十分な区別があるのかどうか怪しいところですが)。

 って、いつも同じようなこと言ってますね、自分w。まあ同じなんですけど。

自分を大切にするということ

 最近はいつにもまして物事を考えていないので、文章が出てこないのですが、たまには書いてみよう。前にも同じことを書いていたかもしれないですけれど、特に思想の変化はないということです。

藩金蓮の「アダルトビデオ調教日記」 – 妻に欲情しない夫

 いつも、藩金蓮さんのblogを拝読させていただいていて、読んでいる範囲では同じようなことを考えていて、文章がとてつもなくうまいので、もうこんな拙い文章を載せるのは恥きわまりないのですが、まあ書きましょう。

 と、リンクしていて特に言及するというわけではないと思います(予定?)。

 最近まで、自分を大切にするとか自分を愛するとかそういうことがまったくわからなかった。

 そういうのって、自身のある人がすることだし、なんか嫌みっぽいし、それ以前に自分に自信があるということ自体がどういうことなのかわからなかった。どうせ自分なんかと思っていたから。

 それで、ようやく自分を愛するということがどういういうことなのか少しずつわかってきた気がする。たぶん、それは自分自身を受け入れることなのではないかと。弱い自分、どうしようもない自分を自分自身で受け入れる、肯定すること。成長は大事だけれど、その前にそれでもいいよと受け入れる。

 人間は結構弱い存在で、ともすれば自分を肯定できなくなってしまって、他人にその肯定を求めてしまうのだと思うのだけれど、他人にその義務なんざこれっぽっちもなくて。家族であろうが、恋人であろうが、友達であろうが・・・。本当は。今はそう思ってる。

 このニーチェの一文は恐ろしく核心を突いていて大好きだ。

いったいあなたに泣き言を云わせた第一の原因は何だったのか?誰ひとりあなたに十分に媚びてくれなかったということだ。— そのためあなたはこうした汚物の中に座り、それによって大げさに泣きたてる理由ができたというわけだ。— それによって、多くの復讐を遂げる理由を手に入れたというわけだ!お体裁屋の狂人よ、つまり、あなたの口角の泡は、すべて復讐なのだ。わたしには見え透いている!

Friedrich Wilhelm Nietzsche『ツァラトゥストラはこう言った』

 そして、人は自分の弱さを受け入れることができて、自分を大切にできて、自分を愛せて、初めて他人を本当に愛することができるのだと思う。だから、自分にとっては、自分を大切にする = 自分を愛する = 自分を受け入れるということ。

 自分の自信を受け入れずに、他人を愛するというのは往々にして、他人の愛を要求することになる、そんな気がしてる。自分は愛しているのだから、あなたも愛してね、そんな押しつけがましい偽もの愛、要求。

 とかく自分がそうだった(今も?)。

 自分自身が藩金蓮さんの文章に出てきそうなどうしようもない男。自分ではないかと思えるほど(笑)。

 自分の痛い過去をさらすのはなかなか難しい。しかも、ひどい自分というのをさらすのは。

 自分に自信がないから、他人によって自信を得ようとする。そのくせ、自分を受け入れられていないから、受け入れようとしない、他人をコントロールしようとする。まるで子ども。まるで子ども。

 結局彼女のことをさんざ、傷つけたあげく振ってしまったのだけれど、なぜもっとこういう大切なことに気がつかなかったのか?今でも自分がにくいと思う。

 それから、いろいろなことがあって心理学を勉強するようになった。それは自分を知るため。心理学が本当かどうかわからないけれども、かなり今までの経験に照らし合わせてみると本質的なことを言っているんじゃないかと直観はしている。

 パートナーは鏡だそうだ。

 未だ、自分を正当化しないけれど、自分が全部悪いとも思っていない。というか、善い悪いの単純な二元論的区別はしたくない。そう思うようになった。自分も、偽物の愛をむさぼろうとしていたけれど、それはお互いだったと思う。〜してくれないの投げ合い。

 そこで、善い悪いを決めつけて攻撃するのは簡単だけれども、自分はそれだけはもうしたくない。そうしてしまったら、全部否定することになってしまう。それは断固したくない。

 善いものも見方を変えれば悪いものに十分になりうるし、悪いものも見方を変えれば十分によいものになりうる。それ以前に、本当に善いとか悪いとかそういうものはないんじゃないか?と思う。

 自分もいろいろな「呪い」が残っていて解こう解こうともがいてはいるけれど、なかなか解けない。でも、まあそんな自分もありなのかもしれないと、とりあえず笑い飛ばして、前に進むしかないのかもしれないね。

 いつかは自分自身を十分に自分で愛せるようになりたい。

 だからこそ、このニーチェの言葉は自分にとってとてつもない輝きと重みをもって迫ってくる。

そしてまことに、自分を愛することを学ぶということ、これは今日明日といった課題ではない。むしろこれこそ、あらゆる修行の中で最も精妙な、ひとすじなわではいかない、究極の、最も辛抱のいる修行なのだ。

Friedrich Wilhelm Nietzsche『ツァラトゥストラはこう言った』

 だいぶ眠いのでこの辺で。もうちょっとうまくかけるといいなぁ。

カルトとはなにか?宗教とはなにか?

 今、カルトとはなにか?宗教とはなにか?めちゃめちゃ考えています。

 以前から心理学について学ぶのが好きで、少しずつ本を読んでいます。中でもビジョン心理学は好きで、これを知ってから結構物事を新しい視点で見ることができるようになって、いろんなことがわかったような気がしてきました。もしかしたら、気がしているだけなのかもしれません。

 さて、そのビジョン心理学ですが、その説明には心理学とスピリチュアルを統合したものと書かれています。そして、このビジョン心理学の創始者であるチャック・スペザーノは、ビジョン心理学を確立した後、この心理学が”A course in miracles” (ACIM; 奇蹟の学習コース)と呼ばれるものに非常に似ているということに気づいたと書いています。気になるのは「スピリチュアル」という部分です。昨今、スピリチュアルブームらしく、いろいろと出回っています。正直、信用できるか?と聞かれるとうーんとうなってしまうものが多いです。見ている分には楽しいと思いますが。

 ビジョン心理学の本を読んでいると、人間の思考の仕組みについては心理学的に書いてあるような気がします。気がしますというのは、私は心理学者ではないので今のところわからないからです。そして、問題が起こる背景には自分の観念があり、それを投影しているためというようなことが書いてあります。そして、それを解決する手段として観念に気づき、変えていくということになっています。そして、ここの部分にいわゆる「スピリチュアル」的な方法が使われているという仕組みです。たぶん、こういう観念を変えていくためにはある種シャーマン的なこういう方法を使うことが、人間に対してもっとも効果的であるためと考えられます。

 しかしながら、こういった手法は下手をすると宗教的、あるいはカルト的だと考えられます。非常に近いものであると感じざるをえません。

 そこでまず必要なのはなにが宗教でなにがカルトなのかということだと私は考えました。ですが、これはあまり容易なことではありません。そして、この両者の区別も非常に難しいところです(私はキリスト教もカルトだと考えているので)。

 そして、私は宗教を全否定するつもりもありません。

 とりあえず定義が非常に難しい気がするので(気がするだけ?)、私の拙い知識で宗教の問題点を探ろうと思います。

1. 依存形成
 宗教は依存を形成すると考えています。そして、宗教の教義に依存するために思考が画一的になります。そのためには、無価値感・罪悪感を植え付けなくてはいけません。無価値感は他のなにかがないと生きていけないと思わせ、罪悪感を癒すために宗教があるという言い方をすれば、依存させることができます。

 そしてキリスト教は究極の罪悪感である原罪を導入しました。もはや生まれてきたこと自体が罪であるという。カルトがよく霊感商法を利用して不安感を煽るのも究極的には、こうした無価値感・罪悪感を煽るためだと考えられます。

 ビジョン心理学や(たぶん)ACIM(これは原罪を否定する)では、そういった無価値感や罪悪感は偽物であるといっています。
「偽物」という言葉にちょっと引っかかりますね。そして、教義 = 価値観だとすれば、画一的になるかもしれません。

 2. 以降は考えていたことをすっかり忘れてしまいました(笑)ので、少しずつ思い出しながら書いていこうと思います。

 最後にビジョン心理学について書かれている本を挙げておきましょう(ほとんどの本を出版しているヴォイスは正直言って非常に怪しい本ばかり出している)。

チャック・スペザーノ博士の「幸せな子ども時代を取りもどすのに、遅すぎることはない」
著者: チャック・スペザーノ
ページ数: 273ページ
出版社: ヴォイス
発売日: 2007年1月25日
チャック・スペザーノ博士の「ハートブレイクには恩恵が隠されている」
著者: チャック・スペザーノ
ページ数: 273ページ
出版社: ヴォイス
発売日: 2006年11月23日
傷つくならば、それは「愛」ではない
著者: チャック・スペザーノ
ページ数: 471ページ
出版社: ヴォイス
発売日: 1997年11月
チャック・スペザーノ博士の「癒し大全」
著者: チャック・スペザーノ
ページ数: 269ページ
出版社: ヴォイス
発売日: 2003年4月
Dr.チャック・スペザーノの「ラブパック・セラピーカード」
著者: チャック・スペザーノ
ページ数: 269ページ
出版社: ヴォイス
発売日: 2004年4月
こころのビタミン — あなたの夢を実現する
著者: 栗原 英彰、栗原 弘美
ページ数: 127ページ
出版社: 現代書林
発売日: 1996年5月
成功する心理モデル
著者: 栗原 英彰
ページ数: 336ページ
出版社: ヴォイス
発売日: 2006年9月21日
マネーセラピー
著者: 栗原 弘美、鷹野 えみ子
ページ数: 288ページ
出版社: ヴォイス
発売日: 2006年8月24日

 それにしても、どうも思ったことがうまく書けない。内容が薄っぺらくなってしまう。ということは、もともとたいした内容を考えていなかったのかもしれない。

未来の自分に託す問

 常に問い続けること

 適当に「味方」になるような「助言」をすることは、その場を取り繕うものでしかない。しかしながら、そういった偽りの「助言」、偽りの「正しさ」はその場を「取り繕う」ことがあるにせよ、実は本質的に見て、人生のずっと先を見て、その人を滅ぼしかねないことがあるということがわかるであろうか?本質的なことを気づかせないことへの手助けが、壊滅的なものをもたらすということがわかるであろうか?ユングの言う「自己実現」の妨げになるということがわかるであろうか? この愚かさがわかるであろうか?

 敵だの味方だのの二元論的思考は、身を滅ぼすことがわかるであろうか?そのような二元論的思考が、どんなにかルサンチマンによる価値逆転であり、偽りの自己肯定感を得るためのものであるということが、わかるであろうか?また、敵だの味方だのというのは、自分の自我が作り出した幻想であることがわかるであろうか? 唯一、敵がいるとすれば、それは己自身の中に存在するだけ。 本当は、それすらも敵でも味方でもないであろう。

 この世界がいかに自分自身の心を写す鏡であることがわかるであろうか?自分を倖せにできるのは、他の誰でもない唯一自分自身だけというのがわかるであろうか?自分の感情すべては、自分自身に責任があるということがわかるであろうか?「正しさ」が破滅をもたらすことをわかるであろうか?人の行動の中にどうすることもできなかった、無意識的なるものがあることがわかるであろうか?〜のせいだと(人、ものすべて)「被害者」になることが、自分にとって甘い「蜜」になっているということがわかるであろうか?

参考
被害者になってしまう心理〜依存心を手放して“無害者”へ〜
「自分のために生きていける」ということ — 寂しくて、退屈な人たちへ

 よく言われる「ありのままの自分」ということについて。「ありのままの自分である」ということの、その本質は、メタ意識により、感情を抑圧せずに感じ、先入観(自己概念含む)、他者意識、他者承認、投影など諸々のものから自由になることであろう。他者意識、他者承認から自由になることがどれだけ大切かわかるであろうか?

参考
「苦しさを感じるなら、僕なんて愛さなくていいんだ」

 恐怖、期待からの自由ということが大切なことがわかるであろうか?

 再び書くことになるが、それらから自由であるためには、メタ意識を使って自由であろうとすることが必要であろう。

 無知ということがいかに危険なことであるということがわかるであろうか?
 すべてのことは、何一つ無駄ではないということがわかるであろうか?

 自分は常に問い続ける必要があるであろう。